ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.125/ 2003.3
寄稿エッセイ:忘れえぬ人々M



忘れてはならない売血の傷痕 血液事業の光と影
− 佐久友朗著『売血−若き12人の医学生はなぜ闘ったのか』を読んで−

土井 啓員

売血。私を含む若い世代には耳慣れない言葉である。かつて我が国では、血液事業が営利目的の民間企業に牛耳られていた時代があった。自分の血を売れば働かずして金になる。血を必要としている人がいるからという大義名分を隠れ蓑に利潤をむさぼる。それが及ぼす害毒を知りながら必要悪と片づける。本書はそうした一種の「世の矛盾」に敢然と立ち向かった若い医学生達のルポルタージュである。

正確に言うと本書の著者である佐久氏は「元」医学生、しかも本学医学部の出身者である。売血が社会問題となった60年代に医学を学び、ライシャワー事件をきっかけに売血が根絶していく時代の変遷と真っ正面から向かい合った氏が、当時を振り返って執筆したのが本書である。開業医として現在も医療の第一線で活躍する氏は、100%献血によって運営される現在の血液事業に隔世の感を抱くという。とりたてて何か医療事故の被害を受けたというわけでもない若者達に売血を追いつめるエネルギーを与えたのは、医学を志す学生としての強い正義感であったろう。今や過去のものになりつつある売血を振り返る時、氏はただ、「日本の血液事業が歩んできた道程を、時には苦い反省の思いを込めて振り返ってみることも無駄ではないと思うのである」(本書まえがき)と控えめに語る。だが、一連の売血騒動は単に医学上の問題ではなく、憂慮すべきいくつもの社会現象とオーバーラップするところの多い、非常に示唆に富んだ事件だった。売血を直接知らない世代にとって、この事件が教えてくれるものを吟味することは、「無駄ではない」どころかむしろ極めて重要であると思う。

いつの世にも知る人ぞ知る社会悪はあるもので、警察や大企業の不祥事隠蔽、政治家・官僚の専横など、枚挙にいとまがないほどである。しかし、薄暗やみに隠れて見逃されてきた社会の巨悪に、勇気をもって立ち向かった人々の努力はいつか必ず報われる。売血を追った医学生達が何十年も前に示してくれたことは、現代にも形を変えて姿を現しているのではないか。かつて売血は必要悪であった。売血を廃止すれば社会に混乱を来す。売血があるからこそ助かったという事例もある。それが売血を看過した者達の言い分であった。だが売血を根絶しようと真剣に取り組んだ結果はどうだっただろうか。たしかに改革に伴う痛みはあったものの、日本の血液事業はあるべき姿に向けて確実に前進した。この評価に異論はないであろう。構造改革が盛んに叫ばれる昨今、売血という必要悪を退治した成功例が示してくれる希望の意味は大きい。

だが、売血という言葉が聞かれなくなった頃から我々は、外国ではいまだに売血が残っているという事実に関心が薄くなっていった。全血製剤こそ100%国内献血で賄われているものの、年々使用量が増える血漿分画製剤は、その原料の一部を海外の売血に依存しているのである。この重大な事実がどの程度社会に浸透しているだろうか。なるほど医学的な安全性は高いレベルで保証されているかもしれない。だがそれとは別の倫理の問題を忘れてはならない。大火傷を負った時に助けてくれるアルブミンが海外の献血や売血なくしては到底賄いきれないという現状は、医療者にも患者にも、もっと知られてよい。ちなみに日本の血液製剤使用量は世界一だという。我々は、文字どおり他国の人々の血を吸って健康を取り戻している、と言ったら言い過ぎであろうか。平和で恵まれた環境に慣れすぎて、かつて自分たちも経験したはずの痛みを忘れ、暖衣飽食をむさぼる今の世相。充実した現在の血液事業にそうした我が国の世相が潜んでいないと言いきれるだろうか。

太陽の恩恵のありがたみは夜の暗さがあるからこそわかる。血液事業が今ほど発達する前にどんな悲劇が繰り返されたのかを知ることは、二度とそのような悲劇を繰り返すまいと努力するための推進力となるであろう。それゆえに、売血を知らない若い世代こそ、売血を知らねばならないと思うのである。繰り返すが、売血問題から我々が学ぶことができるものは、単に医学的な問題だけでは決してない。考えてみれば、売血に限らず様々な社会悪はお互い似たりよったりであり、我々は個々の例から、社会における善と悪を曲がりなりにも演繹することができよう。だが、過去に同じようなことを経験しながら、今目の前にある問題を善処する糧にしきれないのも世の常なのかもしれない。自戒としたい。

佐久氏は類まれな行動力と団結力で、学生の身分でありながら売血という巨悪に見事に風穴を開けた。誠に月並みではあるが、母校の先輩にこういう硬骨漢がいたことを誇りに思うし、尊敬せずにはいられない。本書は残念なことにもう絶版で入手できないが、氏のメッセージに共感した有志の働きかけで、今ではインターネット上で全文を読むことができる。http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9043/baiketsu/index.html
これも将来の血液事業、ひいては将来の仁術のためにと祈る氏の協力がなければ実現できなかったことである。本でもネットでもかまわない。ご一読をお勧めしたい。(佐倉病院薬剤部)

『売血−若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのか−』(佐久友朗著 近代文藝社1995 ) は医学メディアセンターで所蔵しています。