ある医学図書館員の軌跡

佐倉図書室通信 No.127/ 2003.5
寄稿エッセイ:忘れえぬ人々 16



「ゼクをして下さい」 −認められぬ病−

松澤 康雄


92年夏。我々、呼吸器内科の研修医4名は、秋からの出張病院をアミダクジで決める事になった。クジを私が作り、他の3人が順番に引いた。運命の瞬間。私は目でアミダを追った。成田日赤・・・のはずだった。そこへ消化器内科のオーベンが通りかかった。「出張のクジか。よし、最後に俺が、1本線を入れてやる」、その1本の線のおかげで私の出張先は静岡の沼津市立病院に決まった。

沼津市立病院は国道1号線沿いにある500床の総合病院である。他に大病院のない静岡県東部では唯一の存在で、交通外傷、心筋梗塞、癌、慢性疾患、何でもありの病院だった。「研修医は、最初にみたものがそのまま主治医」という「沼津ルール」のおかげで、2年間で約500名の様々な疾患の入院患者を受け持った。その中で最も忘れられないのは「理恵さん」、当時24歳だった。

93年8月28日土曜日、暑い日だった。私はピンチヒッターで外来をする事になった。ひどく混雑していた。その日、理恵さんは、勤務先の医師の紹介状を持って実家近くのこの病院を訪れていた。彼女は、静岡市の某有名病院の付属看護学校をその春に卒業し、その病院の小児科病棟で働き始めたばかりであった。「難治性の気管支喘息」、紹介状にはそうあった。何日間か発作が続いていたが、プレドニンを50mg内服し続け、「苦しくなくなったので」病院に来たという。普通に歩いて来たし、聴診しても喘鳴は全く聞こえない。しかし、顔色がひどく悪い。血液ガスを取った。真っ黒な血が上がってきた。PaO2 38。喘息?それだけなのか?何か変だ・・・。すぐに入院するように言った。しかし、彼女は、血液ガスの異常値の意味を知りながら入院を拒否した。「今日はちょっと病院の様子を見に来ただけなんです。待ちくたびれて、帰ろうと・・・。それに今からプールに行くんです。体を鍛えなきゃ」あきれた奴である。「死にたいのか?」「それでも、看護婦か?」、強引に入院させた。

彼女は新人看護婦というが、医学知識は驚くほどだった。病状に関して鋭い質問を浴びせてきた。私も必死に対応した。ほとんど戦いのようなやり取りが続いた。最初は不信の目つきだった彼女も、次第に信頼してくれるようになった。私も自信を持って治療にあたった。しかし、彼女の「喘息」は恐ろしく難治性であった。血液ガスは正常化したものの、ピークフローは安定せず、喘息発作は頻発した。やむを得ず、大量のステロイドを使用し続けることによって、ようやくピークフローは安定し、喘息発作も起きなくなっていった。しかし、ステロイドを減量しようかと思っていた矢先に、突然、下肢の麻痺、尿閉といった脊髄障害を思わせる神経症状が現れた。他の病院も含め、何人もの医師に相談し、様々な検査、あらゆる治療を試みたが、検査の異常はほとんどなく、原因もわからず、治療も奏功しなかった。

例えば「アレルギー性肉芽腫性血管炎」としても、ステロイドの副作用としても、理恵さんの症状は、過去に報告されたどのような例とも異なっていた。喘息発作も再び頻発するようになっていった。ステロイドを再度増量したが、体型の変化や皮膚の萎縮といった外見上の副作用が強く現れ、改善しない神経症状とともに彼女を悩ませた。私も悩んだ。悩んだ末に出した結論は、彼女の症状を総合的に説明できる疾患は、もはや「ヒステリー」しかないということだった。しかし、彼女は自分が「精神疾患」と診断されることを激しく拒絶した。確かに「ヒステリーで、PaO2が30台にはならないだろう。しかし・・・」

試行錯誤が続いた。秋が終わり、クリスマスも、正月も過ぎた。神経症状の原因は不明のままだったが、熱心な理学療法士の協力もあり、リハビリで少しずつ回復していった。必死にリハビリを行う姿をみていると、とても「ヒステリー」とは言えなかった。春も過ぎ初夏になって、何とか退院にこぎつけたのも束の間、再び謎の神経症状が再発し、再入院となった。私は出張期間の終わりを迎えており、患者を次の研修医に引き継がなくてはならなかったが、彼女だけは私が信頼する常勤の指導医にお願いした。最後まで気になりつつも私は沼津を後にした。

次の主治医は、私とは比べものにならない、誰からも尊敬されるベテラン医師だった。彼は検討の結果、当時の彼女の症状を主に精神的な要因からくるものであると結論し、そのように治療を行っていったという。彼女は反発したようだが、病状は増悪と寛解を繰り返しつつも、全体としては改善傾向となったようだった。「今の先生ともうまくやっています」「ハワイに行って来ました!」と手紙があり、安心すると同時に、私は彼女の治療に関して余計な回り道をしただけだったのではないかと考え、経験の浅さを悔やんだ。やがて記憶も遠ざかりつつあった。  

97年4月29日。突然の知らせだった。理恵さんは愛する両親、弟、そして婚約者を残し、天国へ旅立ったのである。27歳の春だった。仕事も得て充実した生活を取り戻しつつあったが、その年の1月末、再び四肢の麻痺等の神経症状に見舞われ5回目の入院。その後、彼女の勤務先だった静岡市の病院に自らの意志で転院し、その病院で亡くなったのである。私は彼女の実家を訪れた。私が担当していた頃の日記をみせられた。「94年6月5日;先生、いつも苦しめてごめんなさい。・・・できたら、いや絶対、ゼクをして下さい。そうしたら思い残すことはありません。でも、この日記を読む頃はもう遅いでしょうね」

カルテが開示され、彼女が最後の1ヶ月に受けた医療の内容が明らかになった。私は目を疑った。今回の主治医も彼女を「精神的疾患」と捉えていたようだったが、何故かステロイドの超大量投与は漫然と続けられていた。4月に入ってソルメドロール500mgを14日連続。その間、血液検査もレントゲンも一度も検査されなかった。最後の数日、激しい全身の疼痛を訴えていたが、主治医の方針を受けた看護婦は、かつての同僚である彼女の訴えを黙殺した。4月29日の夜、「突然」ショック状態となり、当直医によって、初めて検査が行われた。WBC1000、PLT2000、CRP30、BS1500、血液検査の結果が出てまもなく、彼女は亡くなった。

ゼク(解剖)は行われていた。死因は大量のステロイド投与の結果として生じた敗血症性ショック。全身臓器に出血と膿瘍形成があり、死の前の彼女の苦しみの原因が明らかになったが、原疾患に関する情報は何も得られなかった。私は家族に「これは殺人です。告訴するなら協力します」と申し出たが、弟さんは他の方法で戦うと答えた。日記をみると、94年から97年の間、明るい手紙の文面とは異なり病状は想像以上に悪く、主治医や看護婦との間で大変な葛藤があったことも知った。傷ついた彼女は病院をかわることを選んだが、結果的にそれが最悪の悲劇を生んだ。彼女を死なせないためにはどうすれば良かったのか。何が間違っていたのか。明日は彼女の6回目の命日である。霊前に報告すべき言葉は、まだみつからない。 (佐倉病院内科)

 「ゼクをして下さい」に関連して(図書室より)
渡辺理恵さんが亡くなって間もない1997年7月、弟の渡辺優太さんは「姉の日記より」というホームページを立ち上げました。その目的について「姉が残した資料(日記、ノート、手紙、ワープロファイル)および医療データを無修正で公開することにより、見る人に客観的な判断を求めることであり、そのために主観的な気持ちは極力拝した」と述べています。これこそ、弟が選んだ「他の方法での戦い」でした。「姉に関する医療データのページ」で詳細な見解を述べている元主治医が松澤先生です。