ある医学図書館員の軌跡



国際医療福祉大学大学院(大熊由紀子教授)2006年11月29日授業

 医療福祉倫理特論 「病気と向き合う人を支え」 大学院生レポート
 講師:下原康子・平川裕子

  
大学院生25名(看護師,理学療法士,ケアマネジャー,看護教員,ライター等)のレポートです。
       公開にあたっては大熊由紀子教授のご了解をいただきました。(下原)  

   平川裕子さんは2014年5月27日に永眠されました。ご冥福をお祈りいたします。



1.杉山 正則

講義中に質問させていただきましたが、司書の資格を得るには、努力すれば取得できるが、実際に職員として図書館で働くのは、かなり狭き門であるということがわかりました。私の娘は現在5歳で、非常に本が好きです。幼稚園にある本をよく借りてきては読んでいます。また自分が休みの日に時間があるときは市の図書館へ連れて行ってあげます。すると自分で、本を10冊くらい選びこれを借りていくといい、重たい本を両手で抱えてうれしそうにカウンターへ持っていきます。最近ではまだ3か月しかならない妹に一生懸命読み聞かせをしてあげています。自分はというと、本というものに全くといっていいほど触れてきませんでした。マンガすら読んだ(読むという表現はおかしいかもしれないが)記憶があまりありません。ですから、毎週書いているこのレポートも、おかしな文章で読みにくいと思われますが、今となっては、小さい頃もっと本に親しんでいればかったと後悔しています。そんな自分なので、本日の講義は非常に新鮮で、やりがいのある仕事だと感じました。

アナログからデジタルへの大変換を遂げた現在、図書という分野でも電子化されて、今まで取り寄せるのに苦労した文献などもパソコンから検索できるようになり、これから先もっと需要が増えていくものと感じました。恥ずかしながら自分が文献などを検索するようになったのは、大学院へ進学しようと思った頃からでほんの1,2年のことである。職場では3年ほど前から図書係なるものを任されてしまい、図書の購入などを請負っているのですが、その頃から病院の図書室へ行くようになり、司書の方に、図書申請をお願いしたりしています。当院は、500床程度の大学附属病院なのですが、いつ行っても利用者がおらず、本日の講義で話があったとおりだと感じていました。娘は、将来図書館のおねえさんになりたいと言っています。現状、図書館で働くことは非常に難しいものと思われます。スイミングスクールへ通いはじめれば、水泳選手になりたいと言ってみたりして、将来どんな職業に就くのかはわかりません。しかし、本が好きで本当に司書として働きたいのであれば、その夢をかなえるように頑張ってほしいと願います。自分は、本日の講義を聞いていて、司書という仕事は夢を与える仕事であると感じました。なぜかというと、下原さんのような方の活躍が、医療人のみならず、患者さんにまで浸透していけば、病院にいながらにして、図書室を利用することができ、いろいろな知識、情報を得ることができるからです。

これからの医療は自分で選択していく医療に変わっていくものと思います。そのためには患者さん自身もその病気について勉強していく必要がでてくると思う。人のために勉強する人は少ないと思うが、自分のこととなれば、必死になるでしょう。そんな人のために患者さんにも図書館を開放させてあげれば利用者は増えると思う。そして、病気と真っ向から立ち向かい、自分で決断していけば、生きる希望が湧いてくる人もいると思う。また、疾患に関する本だけではなく、公立病院などでは、市立の図書館などと連携し、病院のパソコンからデータベース化された本を選び、病院へ配送してもらい、入院していても読みたい本が読めるサービスがあれば、需要が増えると思った。(すでに行なっている病院があるかもしれないのですが…。)このことは福祉の面でも同じ事がいえると思う。つまり、一人で外に出られない人が家にいても、その市町村または病院の本を借りられることができればいいと感じた。今回の講義とはポイントがずれてしまったかもしれないが、娘にはこれからもたくさんの本に出会い、下原さんや、平川さんのような夢を与える仕事に就いてもらいたいと思った。

<下原より>
小さなこどもが一心不乱に本に見入っている・・・私が大好きな光景です。うんとこしょと本をいっぱいかかえてうれしそうな5歳のお嬢様の姿、なんてかわいいのでしょう。これからもずーっと本と仲良しでいてくださいね。お嬢様が図書館のおねえさんになられた、そのころの図書館はどのようになっているでしょうか。紙媒体の資料が残っているでしょうか。(残っていて欲しいと思います)司書は本を介して夢や勇気を与えることができる職業なのですね。改めて気づかせてくださってありがとうございました。



2.阿部 洋子

私も、最近、英語文献を検索することが多くPubMedの使い方を医大の司書さんに、教えていただきました。本当に助かります。自分で考えた検索語でヒットしないと、このような語はいかがですか?とすぐに教えてくださいました。司書さん無しに、私の修士研究は、全く進みません。きっと、お二人も私のような人と関わってくださったのだと想像しつつ聴講しました。文献は、本当に便利ですが、その信憑性は、読む側がしっかりしないと、変な情報をつかんでしまいます。生きた情報、生かせる情報の検索が必要で、このような方々の力が、医療や看護の質の向上にものすごく影ながら反映されていると感じます。お二人が、本当に本が好きで、そして、その本を読まれる方をも愛しておられると感じました。すばらしいですね。良書との出会いは、本当に多くの友人であり、師であると思います。私も、心が疲れた時、多くの本に助けてもらいました。そして、同じ本でも、自分の読む時の、体調や心情で全く違うのがありがたいです。人の書いた本ですが、そこには、常に自分の価値観を投影していることを感じます。

お二人の病者としての体験も、医療従事者として、手に取るようにわかりました。多くの困難があったと思います。命と向き合いながら、様々なことを考えて、今、お二人の素敵な笑顔があるのだと思いました。患者様のための、図書室の話、素敵ですね。残念ながら私の勤務する医大にはありません。しかし、現在、患者様は、治療を医師の説明に納得して受ける時代です。ベッドサイドのテーブルの上に、『今、がんと言われたあなたが読む本』などという本があって、ドキッとすることがあります。「私は、自分の病気だから、納得して受けたいの、それが、良くても悪くても・・・」とはっきりおっしゃる患者様の強さに、時代の変化を感じます。このすばらしい、図書室が全国に広まることを期待します。さっそく、病院の副院長に話してみます。

<下原より>
安部さまは大学病院の看護師をなさっておいででしょうか。医学図書館の司書を評価してくださってありがとうございます。司書にとって情報検索で頼りにされるほどうれしいことはありません。そういう声が届くことはあまりないので。ぜひ、患者図書室について副院長様にお話くださいませ。ご協力できることがありましたらなんなりとご連絡ください。



3.三柴 恵美子


今日の講義は、癌体験者お二人のお話で、特に急性白血病に罹患された平川さんのお話は、私のいとこも同じ病気で亡くなったので身近なこととして聞くことができました。平川さんはいろいろと問題もあったようですが今はお元気なご様子で、回復されて本当に良かったと思います。また、下原さんが乳がんにかかられたことを実に淡々と語られていたのは、ちょっとびっくりしました。私がもし乳がんになったら、泣いたりわめいたり、果ては絶望したり、ものすごく取り乱してしまうような気がします。それなのに、下原さんはあたかも病気を楽しんでしまうような感じで、積極的に手術にも同意して迷うことなく医療に身を任せている。それはやはり、自分自身で自分の病気のことを調べて、知識があるからなのでしょうか?

講義中にもしゃべったことなのですが、私がもし重大な病気になったら、やはり自分がかかった病気について情報を得たいと思うでしょう。情報があるのと無いのとでは、不安の度合いが違うように思うからです。しかし、実際にはどこから今必要としている適切な情報を得たらいいのか、私はたまたま大学に勤めていますから知っていますが、知らない人がほとんどです。医者に聞いても、もしかしたら詳しくは教えてくれないかもしれません。そんなとき、誰かが情報を得る術を親切に教えてくれたら、どれほどありがたいでしょうか!下原さんがおっしゃっていらした、「ごちゃごちゃの知識でも無いよりうんとまし」という言葉がすごく印象に残りました。そう、ごちゃごちゃの知識でも、少しずつ知識を入れていけば少しずつ整理ができてきます。自分の病気について知っているのと知らないの、どっちがいい?って聞かれたら、誰だって知りたいって答えるのではないでしょうか。知識があれば、医師の説明だってよく理解できるし、またより深い内容の質問だってできます。病院のもっと患者に身近なところに開放的な感じの図書室があり、体調に余裕があるときは誰でも利用できたらとてもすてきなことですね。病院生活って、時に時間をもてあますし、時間があると余計な心配が膨れ上がります。ベットの上には天井しかないし、天井を見てるより本を読んでいた方がよっぽどいいと思います。ましてや、自分の病気についての本ならきっと真剣に読むでしょう。その患者が必要としている情報をタイムリーに提供してくれる病院司書という仕事は、今まで考えたこともなかったですがとても大切な仕事なんだと、今日のお話を聞いて感じました。また、「死を意識したときが人生の本番」という下原さんの言葉。ずっしりと胸に響きました!

<下原より>
私が伝えたかったことを、的確にそしてあたたかく受け取ってくださって本当にありがとうございました。あたたかいこころを吹きこんでこそ、情報は生きて働き、知恵へと育っていくのだと思います。「死を意識したときが人生の本番」なんてえらそうに言ってしまって、神様が「なまいきなやつだ、それなら・・・」なんて、どうぞ思われませんように、内心ビクビクしています。



4.入江 浩子

今日はめったに聞くことのできない貴重な体験を聞かせていただきました。ありがとうございました。大学院に通って研究のための文献検索や論文を探す機会が多くなって、初めて司書という職業がどんな職務なのかがわかりました。私も医療従事者なので勤務先の図書室を利用することがありますが、今まで司書さんという方は図書の管理と医師のための方だと思っていましたが、自分で何度も図書室に足を運んで研究のための資料を検索しているととっても頼りになる方だということがわかりました。これからもいろいろ助けてもらうことが多くなってくると思いますがよろしくお願いします。

<下原より>
医学図書館で働いていたころ、看護師さんをはじめコメディカルの方々へのサービスが医師に比較して手薄になっていたことを反省しています。ご研究のみならず、日常診療における疑問を解決するためにも、図書室をますますご活用ください。



5.高野 綾

「情報は生きている」と聞きますが、今回の2人の方のインタビュー形式の講義を聴いて、「本当にそうなのだ」と納得しました。「情報が無ければ、死に至ることもある」と、毎日「情報の倉庫・知識の倉庫」である図書室におられる方が、さらりと仰った一言でしたが、ガツンと一発くらったような衝撃すら、私はその言葉から感じられました。そしてその時、私の脳裏に浮かんだのは「ロミオとジュリエット」・・・。まさに、情報が無かった(遅かった)ために、若い二人は自らの命を絶って(死に至って)しまったのだなと。

講義のQ&Aの際、質問をさせていただいたことですが、「人が情報を必要としているタイミングや雰囲気をどのように掴む・判断しているのか?」ということについて、「その人の様子や雰囲気から・・・」ということ。「看護は観察から始まる」と看護学生の1年生の時、最初に教わったことですが、まさに「司書の仕事も観察から始まる」と、看護と司書の共通点を見つけたように感じました。また、「看護はここ10年で広がるし、もっとおもしろくなる」と違う分野の方から、看護に対する見方を言われ、毎日看護にどっぷり浸かっている私には、とても新鮮な思いがしました。

看護学生の時、文献検索はもっぱらCD−ROMから検索し、オリジナルの文献カードを作り、いろいろな図書館から取り寄せたり、直接探しに行ったり…。現在はインターネットが普及し、最新の情報を短時間で手元に取り寄せることができます。そう考えると、情報そのものがナマモノであることはもちろんですが、情報収集の方法もナマモノ(日々刻々と変化するという意味で)であると思いました。

<下原より>
おっしゃるように、情報はナマモノでありイキモノですね。「心のこもった人の情報が心のこもった人に重要な情報として伝わる」杉村隆さん(国立がんセンター名誉総長)がご著書の中で書いておられました。高野さんのレポートは私にとってまさにそういうナマモノの情報でした。ありがとうございました。



6.美野 真智子

病院に勤めていた間、患者さんにとって医療スタッフではないスタッフとの関わりがとても支えになっていると感じることが多々ありました。医療者ではないが病院のスタッフ・・・そういう医療者ではない人にこそ病気や治療の悩みを話すことができるのかなぁと感じていました。下原さんのような方が身近にいたらとても心強いだろうと感じます。大学院に入り文献検索をするようになった今、自分の身近に下原さんのような方がいてくれたら・・・と思ってしまいました。

<下原より>
うれしいお言葉ありがとうございます。現役のころ、もっと積極的におせっかいを焼いていればよかったと悔やんでいます・・・医療の専門の方ということで気後れがあったと思います。



7.木村 暢男

普段、ケアマネジャーをしていると、多くの高齢者の方々から、医療の相談を受けます。元、看護師であった私としては、できるだけ良いアドバイスをしたいと思うのですが、だからと言って、中途半端な情報をお伝えするわけにはいきません。結局、最後には「担当のお医者さんに相談してみて下さい」いう一言で終わってしまうことが多いのですが、藁をもつかむ思いで、できるだけ良い情報が欲しいと思っている高齢者にとっては、その一言は、何のアドバイスにもなっていないと感じています。担当医に相談をしても、専門用語がたくさん出てきたり、説明内容が難しいなどで、結局、説明が理解できないことも多いようです。従って、最終的には、担当医の判断に任せるしかないというのが現実ではないでしょうか。医師の判断に疑問を感じてセカンドオピニオンを求めることも、最近では増えていると思います。他の医師の意見を聞くことで、担当医の判断は正しかったと確認でき、安心して治療を受けられることもあれば、担当医と違う意見を聞いて、どちらの治療を選択するか、判断を迫られることもあると思います。いずれにしても、最終的には自分で判断をせざるを得なく、その判断材料は、医師の意見に頼らざるを得ないことが多いと思います。

最近では、「病院ランキング」など、医療の情報を載せた本も増えてきました。しかし、そのランキングの基となっているデータは、その本の執筆者によってまちまちであり、どの情報を基にして、病院や医師を選択したら良いか、判断が難しいと思います。また、本の中で評判の良い医師が、自分の疾患の治療に合っているかどうかも、なかなか判断がつきません。病院や医師の選択に当たっても、自己選択と自己決定が大切であると言う風潮のもと、情報が無造作に溢れかえっているという感じがします。特に、情報を整理するのが難しい方の多い高齢者にとって、「たくさんの情報がありますから、この中から好きなものを選んで下さい」と言われても、判断ができないのが現実だと思います。結局、自分自身で、自分に必要な情報を必要なだけ取り、整理していく術を身につけなくてはならないと思いますが、現実的には、それを個人で行っていくのは大変な労力が必要であり、誰かの援助を受けなくては難しいと思います。「にとな文庫」の活動は、自分自身で情報を整理することを手助けし、患者中心の医療を推進していくための、本当に大きな第一歩だと感じます。そして、溢れかえる医療情報をいかに整理するか、私達、医療福祉に携わる者も研鑽していかなくてはいけないと感じました。

<下原より>
「患者中心の医療」とは「患者の自立性が尊重される医療」ですが、それは、自分で選択しその結果を引き受けるということでもあります。従来のおまかせ医療よりも患者にとって厳しい側面があることを、自覚しなければならないと思います。「医学情報提供」の難しさはご指摘のとおりですが、患者図書室の活動において、小さな一歩、一歩を進めていけたらと思います。



8.西部 弘純

患者の立場として、主治医を信頼することは病気の治療をしていくうえで大切なことである。しかしながら、同時に患者として自分の病気が何であるか、検査の結果、処方された薬はどんな薬なのかなどの情報を知ることは大切である。また、セカンドオピニオンも大切だ。一般的に、こうした自発的な行為は、自分の病気の状態を理解し自分の病気の治療に積極的に参加するという意識を持つことができるばかりでなく、自分の病気を治して行こうという前向きな姿勢を作ることができ、さらには病気の治療や治癒におおいに影響するであろう。自分の病気の情報を理解することは、その病気の治療を受けて行く上で、患者はすべてを医者任せにするのではなく、医者の説明を理解し解らない場合や疑問があったら積極的に質問をして自分自身が納得のいく治療を受けることは大切であると思う。

まず、患者として自分の病気を理解することは最初にしなければいけないことである。そうすることにより、医者が提示してくれる検査結果を理解することができ、自分の病気の状態を知ることができる。そして、医者はその症状に合わせて薬の処方をするが、それらの薬がどのような薬なのか質問することによって、なぜその薬を飲まなければならないかも理解できる。また、自分の病気を理解することにより、例えば、糖尿病の場合などは、食事に気をつけるようになるであろうし、健康管理に気をつけるであろう。さらに、医師によって専門性が違ったり、若い医師の場合は未熟であったりと医者の知識やレベルは一様ではない。そのため、心配な場合はセコンドオピニオンを受けることは大切であろう。特に大学を出たての若い医師は、まだ知識や技術は十分ではなく誤診を受けることもあり得る。また医師によっては、新しい治療法や技術を取り入れるため治験として患者の了解を得ながら治療を行うこともある。しかし、必ずしもその治療がその時点で良いとはいえない。医者といえども、人間であるしミスもする、患者は自分が納得のいく医療をうけるためにも病気になったときは、自分の病気はどんな病気であるかの情報を得て理解することが大切である。自分の病気は医者だけでは治すことはできない。患者自身が治そうと努力しなければ治る病気も治らない。

<下原より>
西部さんのようなご体験をなさった方が、患者が情報を得ることの意義を語られると、司書がおしとやかに叫ぶ数十倍の効果がありますね。生の声で伝えられ、心を動かされる、人と人とのコミュニケーションこそが究極の情報なのだ、腎移植のご体験を短くコメントされたとき、そのように感じました。それまで、心臓死でも腎移植ができることを知らなかったのです。



9.門田 昌子

医学図書館や下原さんのように患者図書室で働いている司書の方は、チーム医療の一員なのではないかと思った。医学的な知識を得るためのツールは、テレビや雑誌、一般向けの書籍や看護学系図書、医師向けの専門図書など形態もレベルも様々である。その中で信憑性があり、ある人のニーズやレベルに応じた適切な資料を検索することは、大変な作業だ。知りたいことはたくさんあるが、体や気持ちがついていかないというのが、危機的な状態に置かれた人間の率直なところで、その状況で資料を集めることはかなり困難である。そのようなときに、また日常的に資料を探すサポートを的確に行ってくれる人材は、時間の節約や情報不足による不安が解消でき、患者や家族にとってありがたい存在だと思う。医学図書館や患者図書室で働いている司書の方には、そのような役割があることを自覚し、どんどん患者の前に出てきて頂きたい。と同時にその支援を社会的、組織的に行える環境が整備されれば、その役割が一般化して更に活躍の場や活用できる人が増加すると推測する。

インフォームド・コンセントといわれ病状説明に時間をかけ多くのことに配慮している医師も多い。しかし、専門用語が常用語となっている医師にとっては、専門用語を使用しているという認識が薄いのか、あるいは熱が入っている影響か、専門用語を連発する医師も少なくなく、そばで聞いていると「一般の人に理解できるのかな?」と思うことは度々ある。最近は大衆向けのテレビや雑誌、新聞でも様々な病気や健康についての特集が組まれているとはいっても、必ずしも知識として蓄積されているとは限らず、ましてや気が動転して頭に入らない状況下で色々説明されても理解できない。様々な因子でその場では理解できなかった説明を少し落ちつた機会に見返し、補足してくれる資料は必要である。特に今後の診療の判断をするべき事態であれば、検索した資料を参考にして医師への質問や判断に活用するのが良いと思う。今回の平川さんの話をきいて確信したが、医師はやはりマニアの人が多いので、確信犯でなくとも無意識のうちに自分の好みや得意な治療法を薦める可能性が高い。医師の説明以外に対象の病気に対して中立的な参考資料を手に入れ活用することは、後悔の少ない療養を送るうえで必要なことではないかと思っている。

診療報酬の改訂や病院経営の事情から、手術患者の場合多くの術前検査を外来で実施し、入院日や翌日が手術日という余裕がないスケジュールをとっているケースが多い。外来は連日多くの患者であふれ、本当に体調がわるい時は更に具合が悪くなる環境である。自分の病気のことであっても情報を新たに仕入ようと思う状態にはなく、平川さんが言われていた新たな情報を手に入れたと思える時機ではない。インフォームド・コンセントが重要といわれて久しいが、そのときにだけ医師に説明責任を求めるのではなく患者側が聞ける態勢をとれ、情報を個人なりに理解できる環境を整備することも本当は含まれていて、それに対するシステムが今後は必要なんではないかと今回の授業で感じた。(具体的な対策は思いつきませんが、少なくとも時間不足を補足する何らかの対策を・・・。)


<下原より>
東邦大学佐倉病院時代に司書も医療従事者であり、チーム医療の一員なのだ、そう思って「クリニカル・ライブラリアン」宣言をしたことがありましたが、あまりに謙虚すぎて効果があがりませんでした。もっとも「チーム医療」のメンバーに入れていただくよりも、黒子に徹して時にはスパイ(!)のように動くのもおもしろいかなあ〜などと半分本気で考えたり・・・



10.早野 真佐子 

「ある医療情報があるかないかが時に患者の命を左右することがある。だからこそ、社会に私たちをもっと有効活用するようにお願いしたい。」医療専門の司書エキスパート、下原康子さんは穏やかな口調で淡々と語る。が、その言葉には、患者に寄り添うことができる自分の仕事へのひたむきな思いと自負が感じられる。患者図書室とは、患者やその家族が必要な医療情報を入手できるように病院の中に開設された図書室で、日本ではまだその数は少ない。しかし、全国で徐々に増え始めている。最近では、インターネットを通じて、一般の人でもかなりの医療情報を入手できるようになった。しかし逆に、素人には、あり過ぎる専門情報の取捨選択はなかなかむずかしい。自分が本当に欲しい情報にもうまくたどり着けない。入手した情報にどれほどの信頼性があるのかもはっきりしない。それでも、自分や家族の病気に関する情報を何とか得ようとする。もどかしさや苛立ちが募る。

そんなとき、下原さんのような医療専門の司書に巡り合えたら、その人はなんと幸運だろう。下原さんは、子供のころから本が好きで、大学も図書館短期大学を選んだ。卒業後は迷わず司書の道を選ぶ。まだ、コンピュータが普及していない頃で、司書の主な仕事は、図書カードを使った図書の分類や本の背のラベル張り、図書の整理など。単調な作業であったが、それが結構楽しかった。しかも、仕事の合間に手にした本を少しずつ盗み読みできた。無類の本好きには、まさに恰好の職場だった。下原さんは、東邦大学付属病院図書室の司書として、長年、医療スタッフの心強い味方として活躍してきた。探した文献を手渡す医師の背後には患者がいることをいつも意識して仕事をしたと言う。文献検索を手伝った医師から彼女の探した文献で「子供の命が助かった」と言われたこともあった。が、勤める図書室の性質から当然のことながら、患者との間にはいつも距離があった。その下原さんが、今年の春、長年勤めた大学病院を退職後、請われて新しくオープンした千葉県がんセンター患者図書室「にとな文庫」の司書となった。今の仕事を始めて、患者や家族と直接接することの面白さを実感している。「患者は(病気と共に生きる)人生を本番でやっている。毎日 う〜ん・・・と思わずうなってしまうような言葉を耳にする。だれも本番にはなりたくないけど、本番はすごい!」

下原さん自身、大変な「本番」を2度経験している。最初は、長年服用していた漢方薬が原因と考えられる急性肝炎、そしてその次は乳がん。肝炎の時には、自分の知識をフルに活用して徹底的に文献検索を行い専門医を見つけた。しかし、乳がんを告知された時には、さすがにその気力はなかった。オープンな態度ですべてを説明してくれた医師の態度に、その後の治療方法をきっぱり決めることができたという。医療情報検索の専門知識に加え、このような患者体験をもつ下原さんを司書に迎えることができたのは、「にとな文庫」にとって、そしてその図書室を利用する患者や家族にとって、とても幸運なことだ。人は自分が経験したことがないことは、本当には理解できない。「患者さんは、情報を知りたい時と知りたくない時がある。適切な情報でも、いつあげるか、そのタイミングがとても大切」という言葉も、彼女の病気体験があるからこそのものだろう。

「にとな文庫」を下原さんはこう表現する。「ソファとお茶があります。音楽が流れています。本はなくてもいいんです。患者さんや家族がやってくることができる場所であれば。そして、そこにコミュニケーションと医療情報があれば。」話を聞くうちに、その「にとな文庫」には、下原さんのこれまでの生き方、専門職としての知、そして患者体験のすべてが凝縮されているような気がしてきた。これからも下原さんと「にとな文庫」は、つらい時期に直面する、時に闇をさまよう患者や家族に、きっとトーチライトのように光を灯し続けることだろう。

<下原より>
私のあの程度の話を、このようにおいしそうに料理なさる筆力にびっくりです。私自身をまるごと、ラッピングされたような、うれしいような恥ずかしいような、ちょっと不安なようなキモチです。中身に偽りありではないかしらという不安・・・疲れたときしょんぼりしたとき、読み返したら元気と自信を取り戻せそうです。お会いできて幸せでした。ありがとうございました。



11.中山 康子

将来、がんになって亡くなる人は二人に一人の確率になるだろうと言われています。今回の下原さんと平川さんのお話しは自分が将来がんになったらという気持ちで聞かせていただきました。講義をしているお二人のお話には病気に打ちひしがれている患者さんの体験談のようなものはあまりなく、司書の立場から情報について、実際自分ががん患者になってみてその意味を知ったといったものが多かった気がします。下原さんが「知りたいと思った時に情報がとれること。」「ふっと後押しをしてくれる。」という表現を使っていらっしゃいました。患者さんやその家族が自分で情報を得ると本当に生きた情報として活用することができ、その後の患者さんや家族の人生までもが変わるのだなと感じました。情報は伝わってこそ情報足りえるのだと思いました。下原さんと平川さんのやろうとしていることは当事者が当事者のためにやろうとしていることなので、情報を必要としている人々には非常に有効なものではないかと思います。今回のお話しは私たち医療従事者にとって今後の対応に影響を与えるものだったと思います。患者さんや家族の方に相談を受けることは良くあることで、その時には是非、下原さんと平川さんにもらった情報を提供したいと思っています。

<下原より>
わたしも康子です。「当事者が当事者として」「情報は伝わってこそ情報足りえる」名文句ですね。わたしがいた病院はリハビリテーション部門がなかったので残念ながら理学療法士の方とおつきあいする機会はなかったのですが、関連大学の司書さんから、理学療法士の方は時として医師以上に医学専門情報を必要としている、と聞いたことがあります。患者さんと直接接し情報提供の機会が多い中山様のような第一線の医療者の皆様に対して情報検索・収集をお手伝いすることも司書として必要なことだと思っています。



12.鶴羽 美里

まず司書と言う仕事に関してあまり知りませんでした。図書館で働く人という漠然としたイメージはありましたが、詳しい仕事内容は分かりませんでした。仕事場所として市の図書館などしかないと思っていましたが、図書館と名の付くものには必ず 司書の方がいらっしゃるんですね。実際、臨床実習に行った時にもその病院には図書館がありました。医学の専門書は特殊なので市の図書館には置いていないことが多く、病院内に図書館があることはとても便利だなと感じました。私も自分の持っている本で知りたいことが載っていないときは大学の図書館をよく利用しました。しかし病院の図書館は職員専用のものだったため患者さんも使用できるような図書館があることを今回の講義で知りすごく嬉しかったです。大変かも知れませんが患者さんが使用できるような図書室はこれからもっと増えて欲しいです。

私は、下原さんがお話をしている中で病気の原因に対して「医者の先生方もよく分からないんだなと感じた」おっしゃった言葉がとても印象に残りました。もちろん医者は人間ですので完璧ではありませんし分からない事だってあります。病気の特定に対して特徴的所見である程度の範囲は狭めるもののこの検査をしてこの所見が得られなかったからこの病気ではないというような消去法で病気を特定することもあると思います。しかしよくわからないでは患者さんが不安になるのは当然のことです。このときに下原さんの担当だった先生が全て隠さず話されたこと、又担当の先生だけでなく他の科の先生の説明もあったこと、これはすごいなと感じました。医療現場で担当医、看護士と患者さんとのコミュニケーション、又医療技術者同士の連携も必要ですが実際に手術に関わってくる麻酔医の方々と患者さんの関わりも患者さんが信頼できる要因の一つになるんだなとかんじました。

<下原より>
たいへん率直なご感想・ご意見を拝見して、つたない話でも聞いていただいてよかったとしみじみ思いました。ありがとうございました。わたしの闘病体験は、職場が病院だったことが幸いしましたが、医師は(麻酔、病理、放射線の医師も)多くの患者さんに対してもっと踏み込んだ説明をしたいという気持を抱いているのではないか、と思っています。



13.山下 敦子

患者さん、家族の方のための医学情報ウェブサイト、患者図書館と聞いて、こんな大事なものがなかったことに、なんで今まで気づかなかったのだろうと思ってしまいました。医療関係者として、私の周囲の病院になかったということもありますが、あるという存在を知らなかったことにも反省しました。医療の現場ではインフォームドコンセントやセカンドオピニオンなど、患者さんに選択を迫ることが多くなってきていました。もちろん、形だけでまだまだなところもありますが、なにかと責任の所在を問うことは、多くなってきた気がします。けれど、説明したのだからと後は患者さんにまかせきりだったり、最新の情報を提供しても、情報収集の仕方まで患者さんへ提供することは少なかったように思います。私も以前は、学術情報のサイトも、利用の仕方も知らずに、最初は利用の仕方から教えてもらっていたのに、すぐに利用できる環境もあり、いつのまにかあって当たり前の存在になっていました。また、医学学術情報は医療関係者のサイトのように思ってしまっていました。

よく考えれば、信頼性が高いと思い自分が使用している学術情報のサイトを、患者さんがすぐに利用できないことに疑問を持たないほうが、おかしかいのですが。もちろん利用したい人、利用したくない人、様々だとは思いますが、どちらも選べる状況があって、それは初めて選ぶことができ、選択肢のない中で、インフォームドコンセントやセカンドオピニオンだけなげかけて、患者さんや家族にとてもひどいことをしてきたと感じました。一生懸命情報を得てきた方々は、多大なエネルギーを費やしたことと思います。素直にあると良いと思えるものに、ないのが当たり前になってしまっていると、こうも気づけないものかと思い、反省するばかりでした。せめて、今回の授業で気づくことができ、ほんとうに良かったと思い、今後の私自身の情報提供のあり方も考えることができました。

<下原より>
山下様は大学でお仕事をなさっておいででしょうか。「よく考えれば、信頼性が高いと思い自分が使用している学術情報のサイトを、患者さんがすぐに利用できないことに疑問を持たないほうが、おかしい」まさにこれが私が患者・家族への情報提供に向かわせた原点であったと思います。
以下、日本図書館協会が表明する図書館の理念です。
「すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する」
「この権利を社会的に保障することに責任を負う機関が図書館である」
この理念に奉仕することが図書館員である私の勤めであったにも関わらず、自分や家族が病気にかかるまでは、実感できませんでした。



14.上谷 いつ子

下原康子さん、平川裕子さん、お二人の患者体験を通して現在の仕事に傾けていらっしゃる情熱と信念が伝わってきました。いきいきと語られる一つ一つの言葉の重みを感じると同時に、医療者である私は、患者・家族の方が必要な情報をタイミングよく得られるような環境作りが果たしてできているだろうかと、あらためて反省させられた時間となりました。病院では、外来・入院にかかわらず、常に誰かが病名を告げられ検査・治療などを受けているという人たちであふれており、大なり小なり必要な情報を必要な時に必要なだけの情報が得られずに困っているという実態があるのではないかと思います。インフォームド・コンセントという名目で医師が説明をしたとしても、一度説明したからそれで終了となりがちで、その後のサポートが十分ではない場合が多いのではないかとも思います。また膨大な量の情報提供がなされ、医師側の自己満足におわってしまい、相手が理解できたのかどうか、納得できたのかどうかを確認する間もなく診察が終了するという実態もあります。これらのことを声に出す患者・家族の方はほんの一部で、ほとんどの方は自分達でどうにか対処しようとしており、困っている状況は解決されず潜在化したままではないかと感じています。

個人的な体験になりますが、12年ほど前、父の肺癌の発病の際、看護師である私に対する医師の情報提供があまりにも少ないと感じた経験があります。また手術前後の説明だけでその後入院期間中はこちらから面談希望を申し出ないと、説明がないままに検査や治療が始まっていることが多々ありました。私が看護師だから知っているだろう、ここまで言うとあとはわかっているだろうという、医師の考えだったように思います。また同僚である胸部外科領域の看護師長に最新の情報を尋ねましたが、十分な答えが得られませんでした。その分必死と情報を集めました。文献検索方法を知っていたことと検索する環境が整っていたことで欲しい情報は手に入り、患者である父と家族である私たちは、納得して手術を迎えることができました。リンパ節転移がありましたが手術(左肺切除・リンパ節郭清術)は無事終了し(家族への説明もなく術後の輸血が終了していたなど驚きの体験は幾つかありますが)、抗癌剤内服のみで再発はなく、現在は田舎で畑仕事を楽しみながら暮らしています。この体験は医療者である私にとって貴重な体験でした。患者や家族は医師や看護師からの説明された情報以外に、自らが納得して得た情報をもとに、医師等からの情報の根拠性を確かめる作業が必要であると思います。下原さんの「自分で得た情報はその力が違う」という言葉はまさに同感です。またそのためには文献検索に精通しているかどうか、情報を得る手段を知っているかどうかが、必要な情報を必要なときに得られるかどうかにかかってきます。その支援をする人と場を整備することの必要性をあらためて痛感しました。

まずは環境を整えなければ、患者・家族の方は「どんな本があるのかもわからない」「どんな情報を持てばよいのかわからない」状態や、「医師に質問もすることができない」状態からは脱し得ません。医学、看護学の本がそこにあること、医学関連の文献が検索・閲覧できること、という環境そのものが、結果的に患者・家族の方のQOLを高めることになることを医療者側は真摯に受け止め、行動に移さなければならないと思いました。私は看護管理者のトップとして3年前、患者図書室の設置を企画しましたが、さまざまな問題があり(というより当時の病院長の理解が得られず予算化できなかった経過があり)、実現しませんでした。しかし翌年には企画は縮小しましたが、情報コーナー「まりナビ」という名称で、狭いコーナーですがインターネットができるパソコンと設備、健康や医療に関する雑誌、トピックス等の情報などを整備できました。今回お二人のお話を聞き、インターネットの情報検索をまずはより充実させていきたいと思います。また「図書館や情報室などの利用が患者・家族の方に解放されていたとしても、その場へ出かけられること自体、エネルギーがある方だ」という言葉を聞き、あらためて様々な状況におかれている方々への対応についても検討し、少しでもよりよい環境作りをしていきたいと考えています。最後に、「情報を提供するのではなく、何を探していいかわからない方にタイミングをみて声をかける」という自らの役割とその極意についても語られていました。医療チームの一員として下原さんや平川さんのような方の存在が、医療の質に十分貢献しうると確信しています。現在のお仕事の醍醐味を医療者に向けて、今後も是非情報発信していただきたいと思います。

<下原より>
あたたかいエールをありがとうございました!こちらこそ元気をいただきました。図書室という限られた窓からですが、医療の現場を見てきて想像するのは、第一線の医療者の方の改革への熱い思いが、多忙と組織の壁に阻まれて日の目をみていないのではないかということです。「医学、看護学の本がそこにあること、医学関連の文献が検索・閲覧できること、という環境そのものが、結果的に患者・家族の方のQOLを高めることになることを医療者側は真摯に受け止め、行動に移さなければならないと思いました」なんてうれしいお言葉でしょう!司書は暇と言ったら、仲間に叱られそうですが、少なくとも医療者の皆様よりも時間的に余裕があります。より臨床現場に関わった仕事がしたいと思っている司書も少なくありません。「まりナビ」(かわいい名称ですね!)の運用に関しては、医学図書館の協力が必須だと思います。聖マリアンナの図書館には現役のころ文献複写でお世話になっていました。私でお役にたてそうなことがありましたらいつでもご連絡くださいませ。最後にお願いを・・・。患者さんにじかに接するというこれまでにない挑戦にびくびくしております。困ったときご相談させていただいてよろしいでしょうか。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。



15.遠城 裕美

資料にある新聞記事を読んでみたのだが、病院に図書室があるというのは非常に素晴らしいと思う。それ以前に私は病院に図書室がある病院なんてこの記事を読むまで知らなかった。大抵病院にいる患者は売店で雑誌や本をかう、または新聞などを買うというのがわたしの中で定まってしまっている。このような図書室を設けることは現代、本を読む人が少なくなってきたなかで、また、わざわざ買うのでなく、そして、そこに来る人との関わりというものができ、新たな発見に繋がるのではないかと思う。今後このように図書室ができるようになるとなんと便利なことだろう。

<下原より>
患者図書室の意義を発見してくださってありがとうございます。患者・家族の方のなかには図書室でごらんになった本をご自分で注文なさる方もいらしゃいます。



16.近藤 和子

今日の授業でまず感じたことは、病気に前向きに立ち向かっているお二人の力強さです。自分がもし病気になり、悪性であることが解ったらどのような行動をとるのだろうか?お二人のように積極的に自分の病気について、それも自分で調べるという行動をとるであろうか?と考えました。私は看護師ですから病気についてある程度の知識はありますが、知らないこともたくさんあります。その知らないことに対してどのように行動するのだろう?と自分のことに置き換えて考えたりしました。今は大学院で勉強することになり、いやでも文献を調べるためにインターネットや本を読むという機会が多くなりました。でも以前の自分であれば文献検索の方法も十分に知らず、ある程度の調べ方しか出来なかったと思います。大学院で学ばせてもらってやっと少し調べ方がわかった状況なのです。誰に聞くといっても、医師に聞く以外には思いつかなかったと思います。

私の病院は総合病院です。附属の看護学校もありますが図書はそう充実していません。もちろん図書室の司書という職業の方と触れ合うこともあまりありませんでした。以前いた病院の図書室に担当の方がおられましたが、図書の係りという認識しかありませんでした。もし司書の方ともっと触れ合いお話しすることをしていれば、私の文献検索の知識や技術ももっとましなもので、今こんなに苦労しなくていいのにと考えてしまいました。患者さんが病気になったときにどのようなことを望むのか、年齢や家族の状況など色々なものにより望む内容は大きく違っていると思います。知りたいと思う人が誰に遠慮することなく調べられるものがあるということは大変心強いものだと思います。ただ調べるために知識や技術が要求されるものについては、それを支援する人やものが必要です。私たち医療者が、患者さんが納得するまで時間を取って対応できているかというと自信がありません。話の最後に「何か質問がありませんか」と声はかけますが、その場で思いつくものではありません。何回も何回も気にかけて同じように声かけしているかというとそうではありません。どうしても質問されることを待つという姿勢のことが多いと思います。私自身いろいろなことを知識として得る方法を知らなければなりませんが、患者さんや周りの人も同じように調べることができる設備があればどんなにすばらしいかと思います。そしてそこのお二人のような心強い助っ人がいればと願わずにいられません。お二人とも病気と闘いながらのお仕事大変だと思います。無理をせず、でも長く仕事を続けて頂きたいと願っています。

<下原より>
患者さんの質問の矢面に立たされている看護師さんを支援することが大切であることを、近藤様のレポートで再確認しました。「にとな文庫」は看護師さんやコメディカルの方(医師ももちろん)にも利用していただきたいと願っています。ありがとうございました。



17.鈴木 優子

「情報収集のナビゲーター、患者図書館司書」
病は突然、ふりかかってくるものだ。何の予備知識もないところに、医師から恐ろしげな病名を告げられ、専門用語をまくしたてられると、頭は真っ白、パニックになり、思考能力が一時停止してしまう。そんなとき、身近に患者向けの図書館があれば、停止した思考能力を解きほぐすのに、とても役に立つはずだ。病気の正体や治療法を知ることで、心も落ち着いていく。特にがんのような厄介な疾病の際はなお更だ。私も家族ががんにかかったとき、動揺し迷い、何から情報を得たらいいのかわからず、かなり回り道をした。あの時、患者図書館の存在を知っていたら…と少々悔やまれる。最近、流行のように続々設置されつつある病院内の患者向け図書館。だが、単に医学や看護の書籍や文献を並べれば、事足りるものではない。膨大な情報の中から、真に知りたいものにたどりつけなくては、意味をなさないからだ。そのナビゲーターとなってくれる心強い味方が医学書専門の司書である。

下原康子さんは、そんな患者図書館の司書である。「ヘルスサイエンス情報専門員」の上級資格を取得している医学書関係の専門司書だ。現在は千葉県がんセンターに勤務しているが、患者図書館との縁は、東邦大学医学部付属病院の図書室に配属された1974年に遡る。すでに30年以上のキャリアを持つスペシャリストだ。いつもは患者のために調べものをしていた下原さんだが、自らが急性肝炎を発症したときには、その検索能力を今度は自分の病のために費やした。結局、医師でもわからなかった肝炎の原因まで突き止めた。しかし、乳がんに罹患したときは、少々勝手が違った。「なかなか調べる気になれなかった」というのだ。病気を知ることは、不安を軽減する一方で、増大させることもある。私も家族のときは、情報を得たいと必死に奔走したが、自分のこととなったら、尻込みするかもしれない。最近は知る権利を声高に主張する風潮だが、患者には知る権利と同時に、知らないままでいる権利もあるのだ。この二つの気持ちの狭間で揺れ動いている間は、不安をかきたてる情報まで知る必要はないのではないか。

下原さんは、最後は医師を信頼することで、情報を得るようになったという。このお話を伺って、情報入手には「タイミング」が重要なのではないかと思った。心の整理がついてから、調べはじめるのがタイミングとしては、ベストなのだろう。患者の自主性を重んじる下原さんは、情報を「提供する」とはいわない。大枠と方向性を教えて、自分で探り当てられるように仕向ける。ナビはするが、すべてをそろえて、「さあ、どうぞ」と与えるのではないのだ。「人に与えられた情報と自分で得た情報とでは、自ずと意味が違ってきます。やはり、自分で得た情報の方が頭に入ります」。そういわれれば、受験勉強でも自分で調べたことは、忘れないものだった。「自分で調べる」作業は、もしかすると、患者になって、やらねばならない最初のステップかもしれない。現代は医学に不案内な人間でも、ネットも含めて、膨大な情報の入手が可能だ。時には、その情報の大洪水に溺れることもある。しかし、下原さんはいう。「初めは頭の中がゴチャゴチャになります。でも、それでいいんです。白紙よりは明らかにいい」。混沌の中から、さまざまな取っ掛かりや疑問が生まれ、それを手がかりに徐々に整理されてくるものらしい。情報の交通整理ができるようになれば、もう患者としては一人前なのだろう。

患者図書館の設置が増えることは、患者にとって歓迎すべき動きだが、専門の司書が配置されなくては、機能は半減する。とはいうものの、お恥ずかしいことに、私は医学書専門の司書の存在を知らなかった。記憶をたどると、私も遥か昔の大学時代、司書資格を取っていたのだ。この仕事を知り、親近感と強い興味を覚えた。いろいろな人にもっとこの仕事の大切さを知ってほしいし、活躍の場を広げてほしい。下原さんはじめ、患者図書館の司書の応援を影ながらしたいと思った。

<下原より>
こんど患者図書室について書くことになったら、鈴木様のレポートをそっくりいただきたいくらいです。「自分で調べる」ことが好きなタイプの方は、病気になるまでの人生もそうやって生きてこられたわけで、おそらく人に聞くよりもご自分で調べたいと望まれるのではないかと思います。私が「提供」という言葉があまり好きでないのは、私自身がそいうタイプで、司書でありながら「勝手に調べたら」という放任型タイプだからです。(多少逃げもありますが・・・)「司書が配置されない患者図書室なんて・・・」はまったくそのとおりです。人のいない患者図書室は箱物になりかねないと危惧しています。



18.杉本 浩司

下原さん、平川さんのゲスト2人の人柄なのでしょうか。授業がほのぼのした雰囲気で進んでとてもよかったと思いました。私がまずびっくりしたのは、お二人(?)が、千葉県がんセンターにお勤めだったことです。授業のときにも言いましたが、私の母親が2005年2月に入院していたものですから。あの頃、わずか2年弱前の話ですが、病院には図書室もなければ、インターネットも何もなくて、患者、家族は情報というものを手に入れる術がありませんでした。唯一、古いパソコンからセンターのホームページだけを見ることができました。“千葉県がんセンター”という立派な名前があるのにも関わらず、情報は主治医からしか手に入りませんでした。私の母は胃がんでした。主治医は「Opeで胃を半分取れば、問題ないでしょう」と言っていました。情報はそれだけでした。私は福祉の人間です。ですが、知り合いには医療にも詳しい人間だと思われ、よく医療のことを相談されます。実際に何も知らないのですが、セカンドピ二オンを探した方がいいよとだけ言っています。その私が実際に自分の家族に大病が起きたら、セカンドピニオンのセの字もでてこず、ただひたすら主治医の話を信用していました。普段あれだけ偉そうにセカンドピニオンを勧めていた人間がです。

胃がんを詳しく知りたいと思い、大きい書店に行きましたが、平川さんもおっしゃっていたように何を探していいかも分からない。目に入ってくるのは「胃がんは治る」的な体験談や、東洋医学の本ばかり。結局、東洋医学の本とインターネットで胃がんのページを読んだだけになりました。私をとても頼りにしてくれる母。頼りにされている息子の私は無知。幸い、相談の仕事を普段からしていましたので母と親族のメンタル面のフォローだけはできました。母のOpeの結果は予想よりがんが大きかったとのことで、胃を2/3切除しました。その際、主治医は「まだ、ほんの小さいものだけど、転移が見つかったから抗がん剤で対応しましょう。それで大丈夫です」と話されました。母は1ヶ月ほどで退院し、自宅に戻りました。うちの母はフラワーアレンジメントの店を営んでいました。早く現場に立って、パートさんに指導してあげたい。生徒さんにも教えてあげたい。契約先の事業所にも自分がアレンジした花を納品したい。と意欲満々でした。ちなみに私の披露宴は母が作ったブーケとブートニアを使いました。私と妻でいっしょに住むと話しましたがこれ以上迷惑をかけられないと母は一人暮らしを選択しました。自分の母親ですがすごいなと思いました。順調に自宅生活を進めながら5月になりました。2週間に1度は母の様子を見に行っていましたが特に悪い様子はありませんでした。

ところが6月に母から「もう1人では無理」と電話があり、様子を見に行くと状態がかなりひどかったのです。次の日に主治医のところに受診に行きました。状態がおかしいので主治医に確認すると、「お母さんは腹膜播種をおこしています。いわゆる末期状態です」と言いました。私は唖然としました。2週間に1回の定期通院に毎回付添っていましたがそんな説明は一度もありませんでした。主治医に「いつからわかっていたんですか?」と聞くと「え〜、いつだったけな?結構前だから5月の中頃からだったと思いますよ。言ってませんでしたっけ?」彼はこう答えました。私は彼への怒りと自分の無知への悔しさと、主治医を信じて苦しくても治療してきた母のことがかわいそうでたまらなかったのを覚えています。そのまま主治医を五反田にあるNTT関東病院に変えました。関東病院の先生は「さすがにここまで進行していたら、やれることはペインコントロールしかないですよ。もっと早くに診れれば、どうにかなったかもしれませんが」と話されていました。やはり情報が足りませんでした。もっと早くに情報があればなんとかなったかもしれません。母ががんセンターに入院したときに患者図書館があったら違う結果になったかもしれない。そう思うとまた悔しくなってしまいました。けれども今、千葉県がんセンターを利用する方たちには下原さんたちがいっしょに本を探してくれる。素晴らしいことです。患者サイドとしてはとても心強いです。大変なお仕事だとは思いますががんばっていただきたいです。これから寒くなりますからお二人ともお体をくれぐれもご自愛ください。

<下原より>
貴重なご体験をありがとうございました。ご期待にそえるようにがんばっていきたい、そう決意を新たにしました。(現センター長に杉本様のレポートを読んでいただきました)



19.木谷 佳子

私にとって図書館は憧れの場所です。昔、本が好きで図書館が大好きだったからです。昔というのが気恥ずかしくさえ感じるほど、いつの間にか仕事に追われ本からも図書館から離れてしまい、生活習慣の中から遠のいてしまいました。仕事で必要な本、今は大学院で必要な本だけは目を通していますが殆どはインターネットやTVで情報を得ているのが実情です。ですから、本が大好きな文学少女が、そのまんま大人になり図書に囲まれて人生を送っていらっしゃる下原さんが羨ましく素敵に感じました。魚が自然に水の中で泳いでいるように情報という海(図書館)で活躍されている姿が目に浮かびます。また、長い間、活字とキチンとむかいあっている方は発することばが洗練されてくるのかしらと、お話ぶりに耳を傾けてしまいました。「死を意識したとき人生が本番になる」ということばにハッとさせられました。ご自身が病気と向かい、死を意識した人にしかいえないことばです。私は今まで、精一杯、生きて来たつもりでいましたが、つもりはつもり、そうではなかったと気 がつきました。ハッとするととういうことは、まだまだということなのでしょう。

平川さんのお話は医療界の裏を覗き見した気分になりました。自分の病気は人任せにはできないと感じました。病気のことは例え看護師であっても、いざ自分のこととなると腰が引けます。専門以外は知らないことが多いし「知りたいこと、知りたくないこと」があるのです。知ることは勇気が必要です。辛いことには直視を避けたい気持ちはわかります。しかし、それはまだ余裕のあるときでいざとなったら、形振り構わず、真実につめより責任のある生を全うしたいと思います。その時、私は医師から聴く前に下調べをして質問の整理が必要ですし、医師から聴いた話を確かめる意味で自分のケースに即した情報を収集したくなります。まさに当事者研究です。

そんな時の智慧袋になるのが患者さんのための図書館だと思いました。そして下原さんの存在が大きくクローズアップしてきます。私は病院で働いていた頃は心臓血圧研究所の奥にある図書館で資料をコピーさせていただきました。図書の貸出はありませんでしたが100枚コピーをしても無料でした。よその病院から来ている研修医がジャカジャカ使用し私にも薦めてくれたのです。のどかな時代でした。図書係の人の気配はあったような、なかったような記憶です。あとは大学の図書館、看護学校の図書館にお邪魔をしていました。身分証明書などの提示はなくても、いつでも自由に出入りしていました。現在は「からだ情報館」という有名な図書館が出来ているようです。現在、院に通うようになり読みたい図書や調べたい文献があるので通勤途中にある保健医療大学の図書室に、知人を通して出入りを希望しましたが、飛び込みお断り、大学院の紹介状を1回毎に持参しなくてはならない厳しさです。現実はまだまだ、敷居が高いようです。

医師に文献を渡されるときいつも背後に患者さんがいると思って渡していたと話されていた下原さんが、本番の患者さんと接し、求められているときに、本番を生きる人と本番の生きようとする人の魂の触れあいを感じます。下原も平川さんもご自身が、死と向き合うたいへんなご病気の患者さんでもあるのです。だからこそ、誰より患者さんの立場で、強い支えになっていらっしゃるのだと感じました。人間の死亡率は100%です。誰でも必ず死ぬのだけれど、どう死んだかはどう生きたかということになります。病気と向かい合う時、確かな情報を欲しいと願った時、そこに患者図書館があり、下原さんのようなサポートしてくださる方の登場は大歓迎で嬉しいことです。この授業を受けるまでその存在を夢にも知らなかった私でした。これからの下原さん、平川さんのご活躍を祈るばかりです。そして、そんな図書館がもっと増えて欲しいと思いました。医療福祉倫理特論のMLで、平川さんが夜の外出は思い切ったことで翌日の勤務をお休みされるなど体調を押しての出席下さったことを知り、胸が熱くなりました。人生、本番を生きるとはこのことだと深く感じました。ありがとうございました。

<下原より>
本は私にとって隠れ家ではなく世界や社会や人へと繋いでくれる窓であり橋であったと思っています。そしてなによりも大好きな友だちです。つらいとき、側にいてくれる友だちのように、本がはげましてくれるのではないかと思っています。今日、突然すい臓がんと言われた方の奥様が本を返しにみえました。
「ある日突然、末期癌と知って」(横山邦彦 著 碧天舎 2004)やはりすい臓がんの放射線科の医師の書かれた本です。「すばらしい本なので、主人の目につくところに置いていたのですが、手にとろうとはしませんでした」と寂しげに言われました。それでも奥様は、看護系の特集雑誌を借り出され、図書室ができてうれしいと言ってくださいました・・・。



20.安徳 秀子

下原さんがお話されたことへ『癌告知後の自殺』について質問しました。この質問は下原さんが行われている患者への情報提供を否定することではありません。私も大学病院で看護師をしていた頃はよく図書館を利用しました。自分で本を購入することもありましたが、大学の図書館には沢山の本がありましたのでなるべく図書館を利用するようにしていました。その際いつもお世話になっていた司書さんがいました。元々は看護学校の図書館のみの司書をされていたのですが、図書館を新設する際に医学部と合併しました。司書さんのすごいのは下原さんも同じだと思いますが、まず図書館のどこにどのような本があり、私の探しているような内容の文献はその本のどこに載っていますよと答えてくれることでした。元来本を読む習慣のなかった私でしたが、医学や看護に関する本を読む事は大好きでした。そこで新書が入るといつも教えてもらい読みにいきました。また研究をするようになってからは文献検索に頼りっきりになっていました。今でもあの司書さんは私の人生の中で尊敬する存在です。

私は以前卵巣膿腫の手術をうけた(24歳の頃)に卵巣がんの疑いがあると言われ、細胞診の結果では卵巣を全て切除しないといけないので再度入院になると言われました。結果がでるまでの2週間は正直生きた心地がしませんでした。結果は癌ではなかったのですが、昨年子宮がん検診で再検をするように言われました。その際も再検査では医師より今は癌ではないが癌に移行する可能性が高いと言われました。実は検査結果のクラス2と書かれた意味がわからず私はお得意のインターネット検索を行いました。しかしその情報にはすでに前癌状態と書いたものや、癌であると書いたもの、また癌ではないと書いたものがあり、正直その情報に振り回されました。調べても調べても今の自分の状況が把握できず、焦り不安になるばかりでした。今勤務している学校の図書館には司書さんがいません。自分なりに本を持ってきて調べたのですが、やはり分からずという中、直接婦人科に聞きにいきました。このような時に確かに病院内に図書館がありそこで少しでも情報を得る事が出来るというのは患者にとって自分の状況を知るという意味でもいいことだと思います。

講義の日に質問をしたように以前癌告知を受けた患者が自殺をしたということについてですが、今回インフォームドコンセントについて調べていたとき、ある医師の記事をみました。その医師は1990年代から癌告知をしている方で、癌告知をした患者は告知を受けてからも自殺することもなく、また告知を受けた事を良かったと言われたということでした。ただ私の場合は情報が中途半端だったためかその前癌状態の文献に振り回されたようです。人間は結果が見えている事については不安が少なくなるのでしょうが、見えない結果というか将来には不安を抱きます。今もう一度下原さんが行われている図書館での活動は患者にとってすごく力強いものだと思います。また患者経験を生かし、患者さんの立場を考え動かれる事がより患者さんからすれば身近な存在でもあると思います。実際まだ私は毎月受診をするような状況ですが、今院内に図書部門があったらと思います。勿論情報を得るためだけではなく、例えば薬を待つ時間をそこで費やす場として、また癒しの空間として設置されればもっと患者さんは快適(入院生活を快適といっていいのか分かりませんが、入院生活のようにプライバシーが保持されない空間はありません。一人になることも出来ず、また終始誰かに見られ,そして決められた時間に寝起きをし、その上食べるものまで制限していたり、確かに病気で入院しているのだからという人もいます。しかし、基本的な人権はまもられないといけないと思います。ある程度は病院内で生活がなりたつ空間があってもいいのかと思います。その一つが図書館ではないのでしょうか。

最後ですが、下原さんの「人間は死を意識した時が本番,本番にはなりたくないけど」という言葉に思わず頷きました。本当そうだと思いました。そんな本番を迎えた患者さんへ日々接しておられる下原さんの存在は患者さんにとって本当大きなものだろうと思います。これからも是非患者さんの分身というか、患者さんにより近い存在で物事を分かっていただける方というか、何と表現すれば適切かわかりませんが、お体に気をつけて頑張っていただきたいと思いました。また平川さんが講義終了後に直ぐにマスクをつけられた姿が画面上に見えました。講義中はお元気そうにお見受けしたのですが、おそらくまだ無理のきかない体で来校されていたんだと察しました。1日でも早く健康な体を取り戻していただきたいと思います。

<下原より>
ご自身のご経験を拝読しさまざま考え感じました。ありがとうございました。情報が自殺のきっかけになるかもしれない、という安徳さまのご質問に対してはそっけない答えしかできなかったことをお許しください。人をコントロールするには、情報を与えないのがうまい方法ですが、悪いタイミングで悪い情報を与えることは、コントロールどころか人を死に追いやることがあるのかもしれません。



21.沼澤 広子

「医療アクセスの倫理」
下原さんも平川さんもご自身の体験をふまえてのお話だったので、ひとことひとこが本当に重みのある講義であったと思う。乳がんも白血病も再発という不安を心の片隅にかかえながらの生であることが、ご自身に対しても、病気に向き合う人々に対しても誠実であろうとすることにつながっているのだと思う。「患者さんは知りたいときと知りたくないときがある」「教えられることを厭うことがある」といった言葉は体験からしか得られない思いであり、つい一方的に「援助(何かをしてあげること)」を考えてしまいがちな、医療従事者としての自分にとって自戒を促される発言であった。自分が困難な状況に陥ったとき、人は初めて必死に情報を得たいと思うのではないか。それが病であれば、身体的にも心理的にもつらいであろう。答えは自分自身でみつけなければならないとしても、やはり伴走者は欲しいと思う。共に考えてくれる味方がいれば、どれほど心強く、自らへの力となるだろう。患者図書館の司書という仕事はまさに、患者や周囲の人々が情報を得るために共に走ってくれる人なのだということを、お二人は体現されていたと思う。

「選択」や「決定」を誰か他人に委ねられない、孤独で不安な現代において、必要とされるものは何だろうか。医療や看護の現場でいつも感じることは、正確で新しい情報を持った第三者的な専門家が必要だということだ。それはソーシャルワーカーだったり、ケアマネージャー、カウンセラーのような人たちだったりする。そしてこの中には下原さんたちのようなお仕事も重要な役割を持つと思う。と同時に、毎週の倫理の講義を聴講しながら思うのは、これからの時代、社会を動かしていくのは、“手をとりあった一般市民”なのではないかという漠然とした感覚である。そこには肩肘を張ることなく、お互いのために自分のできることをしていく個人の姿が見えるように思う。下原さんの笑顔にそんな思いが強くなるのを感じた講義であった。

<下原より>
そうですよねえ〜司書もソーシャルワーカー、ケアマネージャー、カウンセラー、の方々のように認知されるようになるべきですね・・・改めて自覚させていただきました。ご指摘のように「手をとりあった一般市民」あってこそ、プロの役割が活きて働くのでしょうね。



22.オ.ボロルマー(モンゴルからの留学生)

今回の講義もとても面白かったです。非常に勉強になりました。有難うございます。人間は病気になったら誰でも心配します。特に、お医者さんの説明に満足できない場合、自分の病気についてもっと知りたい気持ちが強くなります。その時、情報を探すのがすごく大変です。どこ行くか分からない、どうすればいいか良く分からないが、そんな患者さんに手を出しているのが凄く喜びたいです。さて、私、病院用の図書室について初めて聞きました。2年ぐらい前、私のおばあさんが日本で食道癌の手術を受けました。お祖母さんが日本語が分からないから24時間面倒を見ることが必要になりました。それで、私、小母さんと交替で面倒をみることになりました。お医者さんからの説明はありますが、病院で何もやることないし暇だからお祖母さんの病気についてもっと調べて、自分にも大変勉強になるこんな病院用の図書館あったら良かったと思いました。患者さんにも患者さんの家族の人たちにも一番大事な情報を得る所だと思います。それから、この医学図書館では喋ってもいい、食べ物もいい、お茶も出る、本がなくなってもいいと話したんですが、これはこの図書館の特徴だと思います。「本がなくなっていい」という条件が一番気になりました。モンゴルでも本がなくなったら、その本が誰かに必要になっているからいいと考えることがあります。
残念ながら、我国の現在の事情は
1. 医科大学の中に図書館あるけど病院の中はなし
2. 医科大学の図書館を患者さんが利用できない
3. 患者さんのための図書館はなし
ということです。モンゴルでも患者さんのためのこんな医学図書館を作る人が出てくるだろうと思います。その上、病院用の図書館を当病院から創造してるのか、あるいは独立なのかを聞きたがったです。もし、機会があったら宜しくお願いします。

<下原より>
「たとえ本がなくなっても、誰かが使っているのだからいい」というのが日本流の考え方というわけでもないのですが・・・。日本においても患者図書室はまだまだめずらしいのが現状です。少しずつ増えてきてはいます。



23.鈴木 輝美

私は看護師・助産師ですが、「患者図書室」という存在を知りませんでした。病棟の片隅に少しばかりの本や雑誌を置いて、自由に持ち出しできるようなコーナーはありましたが、それらは、当たり障りのない読み物が中心で、どちらかというと、むしろ、病気に関する情報を避けるかのように娯楽的な内容のものばかりでした。インターネットが普及してから、誰でも様々な情報を手に入れることができるようになりましたが、それまでは、患者は知らなくて当たり前、知る必要はない、すべて病院にお任せ、といった考え方が、医療者側も患者側も通常であったように感じます。しかし、患者の知る権利、病院側の情報の開示、などが一般的に浸透してきた今は、いつでもどんな状況でも必要な情報を提供できるよう、医療者側にもいい意味での緊張感があるように感じます。患者が必要とする情報を医療者側が提供する、患者はそれをもとにさらに自分で勉強し理解を深める、それが治療の選択に役立つ、治療に相乗効果をもたらす、などの良い循環が生まれるかもしれません。しかし、まだまだ病院や医師に関する情報は少ないのが現状です。患者が、病院や医師を選択するために必要な情報を、いつでも簡単に得られるシステム作りは必須です。ただ、表向きに公開している情報と真の内部事情とは、少なからず違いがあるのも事実といえます。一般の人間が正しい情報を得るのは、なかなか難しいなと感じています。

疾患に関しても同様です。どんな病気なのか、どんな治療方法があるのか、どんな治療を選択すればいいのか、病院や医師によって提供する情報は違ってきます。提供する側の意図も含まれてしまいます。今は、セカンドオピニオンが一般的になってきたとはいえ、まだまだ患者は医師の顔色を伺いながら…という状況は根強いですね。そういう意味でも、患者図書室の存在意義は大きいのではないでしょうか。患者本人や家族が、自ら進んで自分の知りたい情報を知る、その場に医師はいないし、かわりに気軽に話せる第三者がいます。患者は、誰にも気兼ねせず、自由に選ぶことができます。そういう場がいつでも誰にでも開放されているということの意味は、とても大きいと思いました。

<下原より>
患者さんへの一般書のサービスの歴史は古いのですが、医学情報にまで広がったのは最近のことです。ご指摘のように医療者も変わってきています。「患者さんに知識を持ってもらったほうが話が早くて助かる」と考える医療者も増えてきているように思うのですが、いかがですか?「誰に気兼ねもぜず、こっそりと知りたい」それが、多くの患者さんの願いでもあることを忘れないようにしたいと思っています。



24.小川 陽子

2001年、この年の夏は、六月の終わりごろの梅雨から異常な暑さで、8月には、誰もが夏ばてを経験したであろう気象状態だった。その8月の終わり、私の母は数日間微熱がつづいた。この熱は夏風邪で、寝ていればそのうち治るだろうと軽く考えていた。その年の9月11日、アメリカ同時多発テロが起きた。ちょうど、そのとき私は、NHKのテレビドラマを見終わり、そのままチャンネルを変えずにテレビをつけていた。そして、夏の終わりから微熱が下がらない母を、ベッドへ連れて行ったときのことだった、NHKのテレビ映像は、大型ジェット旅客機が、ニューヨーク世界貿易センターの超高層ビルである、ツインタワー北棟に突入し、爆発炎上した様子を、リアルタイムで捉えていた。一体何が起きたのだろう、数分後、数時間後には、日本のどこかでも、同じことが起きるのだろうかと、恐怖に駆られたのを覚えている。

なぜかその日を境に、母の病状が悪化していき、全身のあちこちに痛みが生じ始めたのだった。アメリカ同時多発テロと母の病状の悪化は、まさしく同時に衝撃と不安を与えた出来事だった。忘れられない。病気に縁のなかった母に、何が起きているのか、どこの病院、何科へ行けばいいのかが、私にはまったくわからなかった。ようやく友人のアドバイスを受けてリウマチを疑い、病院を訪れたが、検査結果ではリウマチではなかった。他にはっきりとした病名も見あたらないようだった。

それから、その病院で紹介された大病院の神経内科へ行くが、そこでも、特にこれといった病名が付くわけではなかった。担当医師は、ただ、ステロイドで痛みを止めることしか、今は方法がないと言うだけだった。母は日ごろから“健康おたく”だったため、自分が健康を損なうことにも、ショックを受けていた上に、病名がわからないといわれることで、不安に陥っていた。しかも、ステロイドを投与した場合のデメリットを考えると、母はひたすら拒否していた。しかし、日々、全身を襲う痛みはいっこうに良くなる気配はない。奇病なのだろうか?日に日に不安が募る。私は、しばらく仕事を忘れて、母の病気を治すことに専念することを決めた。

下原さんがおっしゃっていたように、私も、母が発病した原因を突き止めたいと思い、時間を作っては、家や会社の近くの図書館に入り浸っていた。「痛み」というものにポイントを当てながら医学関連の本を端から読んで行った。ある日、「体の痛み」は、歯の噛み合わせから発生する場合があるという説を目にした。「このことを担当医師に話してみようか・・・」しかし、それはまったく医師の見解とは異なるもので、素人の私の話など、おそらく聴く耳はないだろうと思い、医師には相談せずに、ダメもとで、この歯科医師を尋ねてみることにした。痛みで歩くのがやっとという母を車に乗せ、しばらく通い続けた。

歯科医師は「BBO」という方式で、体の歪みから、噛み合わせを整えていくという考え方だった。しかし、その歯科医師は決して、母の痛みの原因が「歯の噛み合わせだ!」とは断言せず、いわゆる、パターナリズム的な医師ではなかった。一ヶ月くらい経ったころから、母の痛みの症状が、少し和らいできた。 母も、治るという感触が出てきたようだった。そのうち、杖をついて一人で歩くことができるようになった。

あれから4年、今はすっかり、体の痛みは消え、杖を使わずに歩いている。今でも、エステに通うかのように、噛み合わせの調整には通い続けている。母の体の痛みのすべてが、歯の噛み合わせにあったわけではないと思う。70年も生きていれば、いろんなところに故障がでてくるのは、当然だ。歯科に通っている間も、巷で有名な内科医師のところへ訪ねたることもした。 その中で、「治れば、いいんです。何をやっても、患者さんが楽になればそれが一番だから。」と言ってくださった先生がいらした。本当にそうだ。

図書館に入り浸ったときのことを思い出すと、医師任せにせず、自分で原因を追求することをしたことは、よかったと思っている。母に、ステロイドを投与せずに済み、内臓への負担や、骨粗鬆症を引き起こすことなく、ほっとしている。病状は、思わぬことから発生している場合があるのだと、そのときはつくづく感じた。あの時、病院に患者向けの図書室の存在と、下原さんのような図書館司書の方にアドバイスをいただくことが出来たら、もっと早く探し当てられただろうし、もっと心強かっただろうと思った。

これからも、多くの病気と向き合う人にとって、下原さんは大きな支えでいてくださることと思います。

<下原より>
お母様のお話から、柳澤桂子さんの『認められぬ病』という本を連想しました。柳澤さんほどの方でも認められぬ病のため長い間苦しまれ、最後に「原因がわからなくても患者さんが楽になればそれが一番」という医師との出会いで復活されたと書かれていました。「医者に認められぬ病」はもしかしたら蔓延してるかもしれません。そういう方には「心ゆくまでお調べください。探すお手伝いをしますから」と言えるようになりたいと思います。