ある医学図書館員の軌跡
佐倉図書室通信 No.161/ 2006.3
ターニングポイント 27(最終回)
さようなら ありがとう 佐倉病院
佐倉病院は増床に向けて具体的に動き出した。関係者が慌しく行き交う院内の様子は開院のころを彷彿とさせる。図書室だけは取り残されたかのように人気がなかった。それから足掛け15年、当時からっぽだった書架は本と雑誌で埋まり、端末は3機になり入館者も増えた。資料の閲覧・貸出、文献検索、新聞の閲覧、複写、文献申し込み、本の注文など、さまざまに利用されるようになった。退職の日が近づくにつれ、毎日見慣れた図書室の光景がなつかしくも愛らしく瞼に写る。これから先、何度となく思い出すことだろう。ターニングポイントもいくつかあったと思う。回想モードで思いつくままに書いてみよう。
1.大学から病院へ
1974年9月、東邦大学に職を得てから、大橋病院図書室に2年8ケ月、医学部図書館(大森)に14年4ケ月、佐倉病院図書室に14年6ケ月。通算31年6ケ月を図書館司書として勤めたことになる。勤務場所が大学から病院に変ったという点において佐倉病院への異動はターニングポイントだった。医療現場に近いところで働きたいという希望がかなえられた。患者さんの治療に役立つ仕事というイメージがやりがいに繋がった。利用者と交わす会話も楽しかった。医療への関心と共に病院図書室の社会的役割についても意識するようになっていった。時おり組織機構上のジレンマを感じる事態が持ち上がったが、それは分室の宿命なのだろう。一方で、分室であるがゆえの自由を有効活用できたと思う。もちろん自由には責任が伴う。学んだことの一つだ。
2.コンピュータネットワークと人的ネットワーク
佐倉図書室のあゆみは医学メディセンターの急速な電子図書館化を外しては語れない。図書室開設当初の文献検索はMEDLINEも医学中央雑誌もCD-ROM版だった。1994年にネットワーク版MEDLINEが導入されたが、MEDLINEのWeb無料公開(1997)に象徴されるインターネット津波の襲来で姿を消した。その後、Pro
Quest(1999)、Cochrane Library(2000)、医中誌Web(2000)、Science Direct(2002)、Web
of Science&JCR(2002)、メディカルオンライン(2006)・・・電子化はますます加速している。いまや、ネットワークは図書室機能の中枢であり命綱となった。司書の商売道具は本からパソコンへと完全に移行したかに見える(異論・反論もあるが)。とはいえ、コンピュータネットワークだけがネットワークではない。人と人とのネットワークを忘れてはいけない。前者は電子化を指向し文献検索に強い。後者は人を介した相互協力システムで文献の入手やレファレンスに長けている。佐倉図書室司書の命綱はまさに後者であった。同業者仲間の人的繋がりが図書室機能に及ぼす影響は小さくない。大学病院を辞めた医師から文献へのアクセスに困っているという話をよく聞く。文献検索よりもフルテキストの入手に困っているという。医療最前線の彼らに文献を届けたい。総合病院なら病院図書室が必須だ。開業医には出身大学の図書館がコピーサービスを実施すればよい。佐倉図書室では地域の開業医に文献複写サービスを実施している。大学病院ならではの病診連携と意気込んだが、思ったほど利用されていないのが心残りだ。今後に期待したい。
3.入院体験
佐倉病院に2回入院した。急性肝炎(1992.10)と乳がん(1995.6)である。図書室で馴染んでいた医師の姿が病棟では一変してプロフェッショナルに見えた。医学図書館員の私は普段から病院・医者探しに文献検索を利用している。急性肝炎の原因については長く服用していた漢方薬が疑われたので、退院後、薬物性肝炎にくわしい医師を探して意見を聞いた。チャレンジテストでその事実が確かめられた。乳がんの時はさすがに気がひけて調べる気力がわかなかった。手術が終わり退院予定日近くになって、再手術を告げられた。疑心暗鬼に陥りやすい状況だ。主治医の佐々木先生の連絡で病理の亀田先生が説明に来られた。スライドや手紙を示しながら「何でも話します」と言われた。その一言で再手術を納得した。かならずしも医学的妥当性が理解できたからではなかった。先生方の温かい気持ちと思いやりに感謝したあのひとときは辛かったけれど大切な思い出として心に刻まれた。
4.佐倉図書室通信
「エッセイを楽しみしています」そう声をかけられることがある。とても嬉しい。だが、まっさきに楽しみにしていたのはいつも私自身だった。1995年1月から2006年3月まで述べ132名の方に執筆していただいた。既に佐倉病院を去られた方も多い。異なる職種、さまざまな部署の方に原稿をお願いするように努めた。唯一の例外は杉村隆前学長で7回ご寄稿いただいた。杉村先生に通信をお送りするきっかけは、通信39号(1995.8)にご寄贈を受けて書かせていただいた『がんよ、驕るなかれ』の感想だった。翌年には文献のご依頼を受けた。43号(1995.12)に載せた「血友病とエイズ」の文献だった。(当時、杉村先生は薬事行政を見直す厚生科学会議の座長をなさっていた)。また54号(1996.12)で『売血
若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのか』(東邦血研物語)を紹介したら、さっそく医学部図書館で借り出されたと聞いた。2004年3月、朝日新聞「私の視点」に私の投稿が掲載されたときも「読みましたよ」と言われた。折にふれ通信を読んでいただいていることを知ってたいそう励みになった。2000年にご退職後も通信を送るようにというご所望がうれしく、つい図に乗って毎年5月号にご寄稿をお願いした。その都度快く叶えてくださった。93号(2004.4)からホームページにも通信を同時掲載するようになり、時おり外からの反響がもたらされるようになった。医療系メーリングリストで話題になったエッセイもあった。道しるべになってくれた通信に感謝し、15年のあゆみを目で見えるかたちで残せたことに満足している。
5.忘れえぬ人々
図書室は出会いの場だった。長くお世話になった人もあれば一期一会の人もある。思い出すままに・・・桐の指南役S先生、おかげで目録システムが構築できました。Windows95時代にスーパーマンと頼ったTさん。パソコントラブル解決マンのSさん。端末用パソコンを寄贈してくださったS先生とM先生。図書室システムのかかりつけ医K先生。ホームページの実現はK先生なしにはありえませんでした。電車でのおしゃべりが楽しかったI先生、T先生、いつも時間の短いのが残念でした。図書室運営でご相談させていただいたY先生、T先生。「おもしろきこともなき世をおもしろく」がモットーのS先生。図書室のパートナーだったKさん、Hさん、Wさん。皆さんのおかげで気持ちよく安心して働くことができました。そして、I書店ご夫妻。木曜日にお二人に会えるのと絶品のケーキが楽しみでした。図書室のベストユーザー賞は3名の方へさしあげたいと思います。一般書の貸出No.1のSさん。コンスタントに上手に図書室を利用されたK先生。PubMed、電子ジャーナルをフル活用し、NEJMに毎号目を通されたH先生。現在はアメリカにおられるH先生のご健闘を祈ります。「図書室は宝の山」「さすが餅は餅屋だね」「図書室に来て得をした」こうした一言が励みになりました。「届けてもらった文献で子どもの命が助かりました」S先生のこの一言は宝物です。
6.図書室って何?
病院図書室は収益部門ではなく患者情報も扱わない。言ってみればお気楽でゼイタクな部門だ。しかし認識しだいでは従来の役割のほかに、情報発信基地にも生涯学習の場にもなり、病院のセールスポイントにできる。危機管理に果たす役割も注目してよい。憩いの場としてもみなおして欲しい。病院図書室って何?と問われれば「窓」であり「橋」であると答える。知りたいことを探す窓(口)であり、知りうる可能性へと架ける橋だ。図書室の窓ごしに見た医療がすべてとは思わないが、生老病死に関るテーマをたくさんもらった。できなかったこと不十分だったことはあるが、「終わりよければすべてよし」これが今の心境である。佐倉病院のすべての皆さまに感謝している。
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東邦大学佐倉病院図書室のある日 |