ある医学図書館員の軌跡
TOHO UNIVERSITY NOW  No.298 1999.3



自然と孤独



風景と自然は違う。風景は忙しい日常の合間にふとながめることができるし、大勢で一緒に楽しむこともできる。しかし、自然を理解するには長い孤独な時間が必要であるように思える。冒険家や修行者が自ら孤独を求めるのはそのためだろう。冒険も修行も縁のない私だが、二十代に経験した一人暮らしが今思えば一番自然と仲良くした時期だったかもしれない。阿佐ヶ谷の小さなアパートで、テレビも新聞も電話もない今では考えられないような生活だった。将来への希望もなかったが、さしあたっての悩みもないので、ただのんびりと好き勝手に毎日を過ごしていた。さえない青春のようだが、当人はたいくつを知らず幸福だったと思う。銭湯の帰り道、突然、歓喜の感情におそわれ、夜空を見上げ感謝したことを記憶している。これが自然と交信した私の原点である。

貧しい私のアパートをよく訪れる一人の友がいた。たいてい休みの前日の夜から泊まりに来て翌日を一緒に過ごした。彼女は私に輪をかけて無精な性分だったので、どこにも行かず二人でゴロゴロしていた。お互い黙ったままで過ごすことが多かったが、彼女といると一人でいる以上にくつろげた。まるで木立のように優しく穏やかな人だった。彼女は四十代で癌で逝った。闘病中、傍らにいながらも、彼女の長い苦しい孤独な夜を想像することから私は逃げ続けていた。見舞いに行ったある日のこと、彼女はスヤスヤ眠っていた。やがて目覚めて「子どものころの夢を見ていた」と穏やかな表情で言ってそれきり黙った。亡くなって一月後、私も癌になった。彼女が早期発見を促してくれたように思われた。彼女は今、私にとって自然の一部である。