患者図書室挑戦の記録
にとな文庫通信 No.27 (2013.8)


父との再会

栄養科 管理栄養士 河津絢子


父が53歳の時、がんと診断されました。私が病院管理栄養士として就職して3年目のことでした。膵臓がん、肝転移、骨転移、すでに治療期ではありませんでした。中学校教師をしており、多忙を理由に病院に行かなかったことも発見の遅れにつながったかもしれません。家庭内不和で長年父とは別に暮らしていました。告知を受け、父は最期をどこで誰と過ごすのか、の選択を迫られました。父のプライマリー(担当)看護師さんは家族がいるはずなのに来ないことを疑問に思い、父と話し合い家族に連絡することを勧めてくれたそうです。結果として、自分の家に帰りたいと希望し、私たち家族に連絡が来ました。

母はこれをきっかけに会いに行き、そして付き添うことになりました。姉や弟は頻回に面会に行き、沢山の会話をすることで何年もの時間と親子関係を取り戻しているようでした。私自身はというと、家族を長年振り回した父に対し、面会に行くことに決心がつかず正直ためらいがありました。最期くらい一度は会いに行きなさい、と周囲から勧められ、主人に付き添ってもらい勇気を出して病院に向かいました。その時、父は歯医者にも通っておらず、満足に咀嚼ができない状況で、主治医(外科医でしたが)から虫歯の治療を勧めてもらい真っ先に治療した直後でした。面会に行った私に「噛めるっていいね」としみじみ話し、入院中の献立表を捨てずに全部とっておいて「こんなものが出てくるんだ、仕事の参考に」といいながら私に渡してくれました。どんな顔して何を話したらいいのか、と悩みながら行きましたが、父と普通に会話ができたことにほっとして力が抜けたのを覚えています。

父の疼痛コントロールができた段階で、弟の大学合格祝いという名目で自宅に外泊をしました。就職して家を離れていた私も実家に帰り、家族5人揃って夕飯を食べました。お祝いで赤飯に、鍋、ケーキも食べたことを覚えています。父は腹水がたまっていて食欲不振がありましたが、それでも家族と同じものを少しずつ食べていました。私にとってはそれが父と一緒に食べた最期の食卓です。結局、診断から2カ月で父は亡くなりました。亡くなる前日まで外泊を繰り返しながら自宅でとんかつやカレーライスを母と一緒に作っては食べていたそうです。治療したことといえば虫歯の治療、痛み止め、睡眠剤の調整のみでしたが、最期まで食べられるように病気だけではなく父を診てくれた主治医と、父と家族をつないでくれたプライマリー看護師さんに感謝しています。最期に父との時間が持てたことは父ががんになったから、とも言えます。私にとっては余命宣告があったからこそ会いに行くことができたのです。

そしてもうひとつ、父を見ていて感じたことは、食べられることは幸せなことだということです。幸せだと感じられれば、がんであったとしてもそれを忘れられる瞬間があるんじゃないか、と思うのです。この気持ちが今の私の原点になっています。私は管理栄養士という職業をしています。栄養管理でがんそのものを治すことはできません。でも、支えることはできます。そして食べることが少しでも楽しみになれば、人生の中で幸せな時間が増やせると信じています。そのために何ができるのかを、これからも日々考えていきたいと思っています。