文学の中の医学 J


どうして私だけが死ななければならないのか  死を目前にした看護学生の手記 
山崎ヒロ子(秋田大学医学部付属看護学校3年生 故人)
看護学雑誌 38巻9号 P.940-944 1974

今回とりあげたのは、ある看護学生が死の直前に書き上げた卒論です。著者の山崎ヒロ子さんは秋田大学医学部付属看護学校3年生に進級したばかりの4月13日、急性骨髄性白血病という厳しい宣告を受けました。それでも可能なかぎり病室から通学し、夏休みに入るとベッドの中で卒論を書き始めます。原稿を書き終えたころには発熱のため二度とペンが持てなくなっていました。卒業を三ヶ月余り後にひかえた昭和48年11月20日、その若きいのちを終えました。



抜 粋  (全文はこちらから)

ベッドの中の人間から見た看護

患者は常に受身の立場にあり、しかも常に精神的に安定を欠いているということ。従って、その(看護婦の)言葉のニュアンス、響きが心を左右するものであること。だから、こうすればこうなるという筋道の通った説明は患者を安心させることになる。このように精神的安定をもたらし、十分納得のいく会話のできる技術こそ看護婦として最高のものだと思う。人間の看護は人間にしかできない。しかも心の中まで看護できるものは人間以外になく、この両者を結んでくれるものは‘ことば’です。看護する者は特に一言一言を大切にしたいものです。

夜の病棟から

ある日のこと、私を看護学生と知ったある患者が夜に訪れて来て「内科の教科書か、医学辞典を貸してくれないか」と言う。何を見るのかと聞いても「なんでもいいじゃないか、同じ病人仲間なんだから、気持ちは分かるだろう」と強く言うので、どうすることが正しいのか判断に困り、うそをついた。「残念だけれど寮に行かなければならない」と答えた。その後、その患者は外出許可をもらって本屋で医学専門書を詳しく見てきたことを知った。「カルテに書いてあるanemieとは貧血、Hbは血色素量で正常値は男は14〜16、あんまり輸血すると血清肝炎になるんだって.....」と5〜6人の患者に話している場面に接した。聞いている患者の目は真剣であったことに驚きを感じたが、これが本当の姿なのではないかと考えさせられた。