文学の中の医学 S
佐倉図書室通信 No.151/2005.5

売血 若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのか
佐久友朗 著 近代文藝社 1995

著者略歴:1942年東京生れ。1967年東邦大学卒。東邦大学大橋病院退職後1981年より十慈堂病院院長。筆名の「友朗」の由来は「今日が駄目なら明日(tomorrow)は咲く(佐久)」。
著書:『病院潰してなるものか -ドンキー医師の不満、怒り、ぼやきの処方箋-』勁文社 1994『まあ聞いて!臨床現場のおもて・うら -臨床30年・ドンキー医師 言いたい放題-』あけび書房 1998

書評:『売血−若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのか−』

佐倉図書室通信の巻頭エッセイ欄に2度ほど書評を掲載したことのあるこの本を再び取り上げたのには理由があります。2005年2月『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)という本が出版されました。元読売新聞社会部記者、本田靖春氏の自伝的遺作です。(本田氏は2004年12月4日死去。享年71)本田氏が若き記者時代に精力を傾けた読売新聞の「黄色い血」追放キャンペーン(昭和37〜39年)は後の献血制度導入のきっかけになりました。我らが『売血』の主人公たち、佐久先生を含む東邦大学医学部4年生12人も昭和39年に起こったライシャワー事件をきっかけに売血撲滅の意欲に燃え、通称「血研」を立ち上げていました。とはいえ、いざ行動となると俄仕込みの知識だけではいい知恵がうかびません。そこで彼らはヒントを求めて「売血通」で知られた本田記者をたずねます。

そのとき、本田記者は取材活動中に暴力団に襲われ大怪我をしたため戦列から離れていました。彼は医学生たちに向けて「新聞記者の身分では医療の内部に入り込めなかった、十分な医学知識を持ち合わせていなかったことが取材の制約になった」と語り「これからのことはぜひ医者の卵である君たちにバトンを引き継いでもらいたい」とエールを送ります。また、「売血の実態調査をするなら名古屋がいい。暴力団に脅されたとき東京に逃げ戻れるから」「暴力団につかまっても、どこの誰だかわからないようにしておくのが安全だ。学生証や運転免許証はもとより、定期券や手帳の類も持ち歩かないほうがいい」などのアドバイスもしています。

その後の「血研」の活躍は圧巻です。労務者姿に変装して売血を体験したり、常習売血者に接触したり、暴力団に追われたりしながら文字通り身体をはって「売血の実態報告」をまとめ上げます。その年の大学祭で発表されたその報告は「血液学会で発表するに足る内容である」と血液学の大御所から褒められたのでした。それからも厚生省、都の薬事課、日赤本社、大学病院などを訪ね担当者の取材をしたり、献血の意識調査を実施したり、と医学生ならではの活動成果を上げています。『我、拗ね者として生涯を閉ず』は「黄色い血キャンペーン」の章に65頁を割いていますが、東邦医学生とのエピソードは語られていませんでした。12人の医学生にとって、本田記者は因縁浅からぬ人物だっただけに残念に思われました。

おりしも、2005年5月9日の読売新聞朝刊に「献血の危機、若者たちはやらない、海外渡航者はできない」という記事が掲載されています。JR福知山線の脱線事故の当日、兵庫県赤十字血液センターが必要な血液を出荷できたのは幸運にも在庫のある時期だったからだそうです。輸血用血液の安定確保は厳しくなっており、抜本的な対策に本気で取り組まなければ献血と輸血医療は遠からず窮地に追い込まれる、と専門家がコメントしています。