康子の小窓 読書日記
初出:地域医療ジャーナル 2022年4月号〜6月号



医師にも彼らの物語がある

下原康子

第1回 『医者が心をひらくとき 上巻』
第2回 『医者が心をひらくとき 下巻
第3回 『ある特別な患者 医師たちの人生を変えた患者たちの物語』




第1回 『医者が心をひらくとき −A Pieace of My Mind

JAMAの名物コラム:A Pieace of My Mind

JAMA(米国医師会雑誌)という雑誌をご存じだと思います。米国医師会(American Medical Association:AMA)が発行する臨床雑誌で、1883年創刊。アメリカで最も権威のある医学・医療雑誌のひとつです。

医学図書館員だったころ、わたしはこの雑誌の受け入れが楽しみでした。一つには、毎号の表紙が絵画だったこと。もう一つは、「A Pieace of My Mind」と題するコラムがあったことです。1980年から始まったこの名物コラムは40数年経た今も続いています。現在では、JAMAサイトでも公開しています。

A Piece of My Mind

1988年から2000年の間にこのコラムに掲載された約800の作品から選りすぐりの100点を選んで編まれのが、以下の本です。

医者が心をひらくとき −A Pieace of My Mind 上・下巻 
ロクサーヌ・K・ヤング 編  李 啓充 訳 医学書院 2002年



医師たちが体験を書く理由


医師たちは、なぜリスクを冒してまで自らの体験を打ち明けるのでしょうか。編者は次のような理由を挙げています。

●書くという単純な行為は、それだけでカタルシスになる。

●書くことによって、自らが抱えている問題、罪悪感、恐怖、挫折感と直面し、心のうちで折り合いをつけるために。

●変貌してしまった現在の医療に対する自分の思いを分析し、それを表現する必要に駆られて。

●技術偏重で損なわれてしまった患者-医師関係に対するやるせない思い、二度と戻らない「昔の日々」の述懐。

●人間にとって究極の個人的な体験である「死」。その劇的瞬間の傍らにいた者としての体験を表現するために。

●死だけでなく生についても、理解を深める手助けをしてくれた患者(私のヒーローたち)を称え、感謝を伝えたいという思いにかられて。

●自分自身に、そして他の医師たちに、自分たちが、なぜつらい「医」という仕事にかかわるのかという理由を再認識させ、医師であることの喜びを伝えるために。


『医者が心をひらくとき』で2つのエッセイ(医学生と女性患者)を引用しましたが、ほかにも素晴らしい作品がたくさんあります。

上巻の「医師になること/医師であること」に含まれる3つの作品をダイジェストでご紹介します。


遺産 (医師)

インターンになって二か月目、がん病棟の一日目だった。フィルは、身長188センチ、青い透き通るような目をした19歳の青年で、急性リンパ性白血病で再入院していた。初めて病室に入ったとき、彼はぐっすり眠っていた。枕元に「注意 昼は熟睡中」という貼り紙があったのに、私は彼の身体をゆすった。「あんたは字が読めないのか、ばか野郎」と彼は叫んだ。

医者、とりわけインターンに関する彼の評価は非常に低く、明らかに私もその一人だった。そのうち、私は彼の病室で長い時間を過ごすようになった。質問に答え、たくさんの検査結果の説明をし、病気になる前の生活を聞いた。ハーレー、パーティ、ビール、ギター、女の子などの話をした。

ある夜、廊下で叫び声が聞こえ、フィルの病室からずぶぬれになったナースが飛び出してきた。フィルが強力水鉄砲で彼女を襲ったのだ。枕元の貼り紙は「インターンは、見つけ次第、射殺する!」に変わっていた。

ある日、目が覚めるような美人が彼の部屋を訪れる。「あのかわいい子は誰だ?」と私。フィルはいきなり水鉄砲を取り出し、私の頬に水をあびせた。やがて静かに言った。「彼女、死んでいく人と付き合うのは難しすぎるって言うんだ」

退院の日が来た。お別れに行くと、フィルが水鉄砲を取り出すのが見え、私はとっさに避けようとした。「もう撃たないよ。先生にこれあげるから、ナースが無茶を言ったら、撃ったらいい」

それから3日後の当直の夜、フィルは救急車で運ばれてきた。そしてERで死ぬ。数分後に駆けつけた母親は、私の顔色を見てすぐに察した。「どんな薬よりも、先生にかわいがってもらったことが一番あの子の助けになりました」と彼女は言った。

フィルの母親を見送っている私の肩を婦長が叩いた。「導入化学療法で入院した子だけど、泣きやまなくて」。私はその子の部屋に行った。彼は枕に顔を埋めて泣きじゃくっていた。

「ビリー、ぼくには特別の友だちがいたんだけど、その人が退院する前にプレゼントをくれたんだ」と私は言った。ビリーは好奇心には勝てず、指の間から私を覗き見た。私が水鉄砲を手にしているのを見ると、大きく目を見開いた。

「僕の友だちだったフィルは、ナースが変な真似をしたら、この水鉄砲でお仕置きをしたんだ。ときどきは僕のことも撃ったんだよ。試しに使ってみるかい?」


先生、本当に?(医師)

前の担当医から引き継いだ82歳のミセズ・ハインズの初めての診察日のことだった。彼女は担当医が代わったことを嘆いてはいたものの、元気そうに見えた。「あの先生を、やっと思いどおりに仕込んだところだったのに」と彼女は目をきらきらさせて言った。私は少なくとも、2〜3年は受け持つことを保証した。それから、彼女の私生活や経歴を聞いた。話を身体の問題に戻すのに若干の時間を要した後に、私は、彼女の収縮期血圧が194まで上昇しているのに気がついた。

彼女のカルテには、過去数回の外来でも血圧が高かったと記されていた。にもかかわらず処方された薬の量が常識では考えられないほど少量だった。私は即座に、強力な降圧剤を処方し、その必要を彼女に説明した。「先生、本当にそうしなければいけませんか?前の先生は、私の場合、元気だからそれでいいっておっしゃってたんですけど」と彼女は言った。もちろん、私の判断が正しいに決まっていた。私は説得した。

その翌日の午後遅く、救急隊員から、家で失神した82歳の女性を近隣の病院に運びたいという連絡があった。地域の救急隊との連絡係だった私は、搬送に同意し、主治医の名前を聞くように頼んだ。「ギル先生が私の主治医です」。前の日に「先生、本当に?」と尋ねたのと同じ声だった。

この事態は私の責任ではないと言い聞かせようとしたが、時間的関係は議論の余地がなかった。私が診察するまでは、まったく何の問題もなかった患者だった。私の有罪は明らかだった。

次の日、病室を訪れた私を、ミセズ・ハインズは嬉しそうに迎えた。彼女は新しい薬を飲んで一時間もしないうちに気分が悪くなり、冷や汗が出て、失神したのだ。「ご自分をお責めになってはいけなくてよ。私、新しい薬にいつも敏感なようなの。いつもこうなるの。おわかりだったでしょ」と彼女は言った。

私はわかってなどいなかった。「先生、本当に?」と言った彼女に耳を貸さなかったからだ。その後の3年間、私は彼女を担当し続けたが、収縮期血圧は高いままだった。処方は超低量に戻して、3か月毎に更新した。

ミセズ・ハインズを診察する最後の日。私は初診時に起きたことを回想していた。別れを告げたとき、彼女は私の手をにぎった。数秒間の沈黙が続いた。彼女はにっこり微笑んで言った。「また、次の先生を仕込まなければならないようね」


個人としての患者(医師)

私が11歳の少女エイミーを担当したとき、彼女の糖尿病のコントロールは非常に不安定なものになっていた。私はこの複雑な症例をなんとかしようとおおいなる熱意を燃やした。自信もあった。しかし、何を試みても、専門家に相談してもうまくいかなかった。私は、エイミー一人に膨大な時間を費やした。

そのうち、エイミーと母親は外来に来なくなった。他の医師も誰も診た者はなく、私は気がかりだった。次にエイミーを診たのは4か月後のことだ。二人はにこにこ笑って挨拶した。母親の話では、エイミーは3か月の間、何の問題もなくすごしていたという。

「どうしてこんなによくなったのですか」私は母親に説明を促した。「いろんなことが一遍に起こったことだけです」と母親は当惑しながらもおかしそうに次のように語った。

4か月前に、お向かいに新しい家族が引っ越してきた。その家には3歳の女の子がいたが、エイミーはほとんど毎日その子の子守をするようになった。ほぼ同じ時期に、両親はエイミーに子猫を買い与えた。子守と子猫の世話を始めるようになって一週間もしないうちに、あれほど心配していた血糖値が安定化するようになった、という。

私は敗北感にとらわれた。私には、エイミーの血糖値が、子守や子猫ようなばかげたことと関係しているなどということは受け入れられなかった。生化学的説明を考え続けた。その後も、私はエイミーの経過を追ったが、経過は順調だった。

その後何年も経ったが、彼女のことは何度も考える。エイミーからたくさんのことを学んだということが今ではよくわかる。病気の軽快や悪化に関連する要因を、個々の患者で見出すことは、決して容易なことではない。私は、こういった特殊要因を同定して患者の診療に役立てる方法として、次のような漠然とした二つの質問を考案した。

本当はしない方がいいけど、している、ということはありませんか?
本当はしないといけないけれど、やっていないということはありませんか?

この質問が役立つということを私は経験的に学んだ。エイミーは、臨床上の問題が患者の生活から孤立して起こることはありえないことを私に教えてくれた最初の症例となった。




第2回 『医者が心をひらくとき 下巻 』



下巻に収められた「思い出をありがとう」「患者の視点」のなかから、3編をダイジェストでご紹介します。

告知 (医師)

彼女はサンルームに一人座り、輝く朝日を浴びて豊かな黒髪を梳いていた。彼女を受け持つ腫瘍専門医として、私は、彼女に癌の告知しなければならなかった。彼女は私の途方にくれた顔をみつめ、静かに私が口を開くのを待った。

訪れる死の前触れを告げることも、医者の役割の一つだ。そのスタイルは千差万別だが、しかし、上手にこの役割を果たすことができる医者などいない。

もうこれ以上、彼女の顔を黙って見つづけることはできなかった。

「生検の結果が戻りました」と私は言った。

「あら、先生が難しいお顔をしていらしたので、何の用事かと思っていたところでした。それで、結果は?」

私は、彼女の目をみつめようと全力を振り絞った。彼女の目には、私への信頼が読み取れた。と同時に、彼女が答えをすでに察していることが書いてあった。

「生検は陽性でした」

「陽性」と、額にしわを寄せながら、彼女が反復した。

「でも、私が死ぬという結果が、なぜ、陽性だなんて言えるんでしょう?」

私は、涙が出そうになった。怒り、沈黙、否定、抗議、拒絶、そういった反応を示す患者にどう対応したらいいかは知っていた。しかし、患者が尊厳をもって応じたときにどう振舞うべきかについては、まったく用意ができていなかった。

私の苦闘を読みとって、彼女の表情が和らいだ。彼女が受け入れているように見えたことが私の無力感を増強し、彼女の冷静さが私の絶望感を高めた。

「これから、どうします?」まるで私を励ますかのように彼女は訊ねた。

私はいくつかの選択肢を挙げた。自分がはっきりわかっていることを話すことで、救われた気持ちになっていた。しかし、それらの処置が究極には何の意味もないことには触れなかった。彼女の顔から笑みが消え、もはや私のことを見てもいなかった。しかし、私は話しつづけた。彼女は窓から見える公園の子どもたちの姿を眺めていた。

やがて、彼女は、私の顔は見ないまま、握手して「どうも、ありがとう」と言った。それは、もう、私に部屋を出て行ってもよいと伝えるためだった。しかし、私は動かなかった。

「もし、何か私にできることがあれば・・・・・」と私は言った。

「先生がこれまでしてくださったことには、本当に感謝しています」

彼女にとって、「私がこれまでしてきたこと」の意味は、生検の結果が「陽性」だったことの意味となんら変わらないことを痛感した。

「でも、もし先生がかまわないというのであれば、私、一人になって、泣きたいんですけれど」と彼女は言った。

私は、自分がどんなにばかだったかを思い知らされた。どれだけ彼女を傷つけたかに気づかなかったのだ。

「申し訳ありません」と私は言った。

これこそ、私が言い忘れていた言葉だった。彼女はうなずいた。その顔に、かろうじてそれとわかる束の間のほほえみがよぎった。



自分が癌と知らなかった男 (医師)

眼科のコンサルテーションを私に依頼してきた内科医が、電話の向こうで奇妙なことを言った。

「ミスター・マーティンは自分が癌で死ぬことを知りません。ご家族が言わないように希望され、私もその希望を尊重しています。患者は、病気はたちの悪いウイルスと思っているので、どうぞ先生も何も言わないようにしてください」

ミスター・マーティンは、痩せた繊細そうな男性だった。重病とは思えない力強い握手で迎えてくれた。彼の訴えは、がん患者の症状としては喜ばしいものではなかった。脳転移が疑われた。

「原因を突き止めるためには、CTをしなければなりません」と私は言った。

「やっぱりウイルスですか?」

「そうかもしれません」

「どの先生もそうおっしゃいます。でも本気でそうおっしゃっておられるのでしょうか?」

「どの医者も本気ですとも」と私は言った。

彼とまた握手して部屋を出たが、落ち着かない気分だった。ミスター・マーティンのCTは予想どおり脳転移を明らかにした。

私が次にミスター・マーティンに会ったのは、他の患者の術前指示を書くためにミスター・マーティンが入院する病棟に、朝早くに行ったときだった。薄暗いナースステーションに座っていると、病棟の雑用係のウィリーがやってきた。私は彼と彼の妻の白内障の手術をしたことから親しくなり、何度か患者のことで意見の交換をしたことがあった。彼には人と容易に心を通わせる才能があり、患者たちも彼にいろいろな思いを打ち明けていた。

「マーティンさんを診られたんですよね。いきさつはご存じでしょう。ご家族は何も教えようとしないんです。でも、マーティンさんは全部ご存じですよ」とウィリーは言った。

「骨シンチにお連れしようとしたとき、マーティンさんは大きなため息をついて『いったい、何の役に立つ?』っておっしゃるんです。『自分が死ぬってことはわかってる』って。死ぬなんてことないですよ、と私が言ったら、とても怒って、『私は、医師からも、妻からも嘘をつかれている。君にまで嘘をつかれる必要はない』そう言って、それまでのことをすべて話されました。いまも私にいろいろ相談されるんです。ときどきは仕事が終わった後に病室にお寄りしています」

私はミスター・マーティンの病室に入って、ベッドの端に腰かけた。部屋は暗く寝ている彼の輪郭しか見えなかった。

「先生に言っておきたいことがあります」とミスター・マーティンは言った。

「私はオーナーとして自分が興した会社を育て上げました。激しい競争のなかで全神経を集中して仕事をしてきました。人を一目見れば働き者か怠け者かわかりますし、言ってることが嘘か本当かもわかります。でも、人は、病院のベッドに寝ている人間は阿呆だと思うようですね」

「自分の病気がウイルスではないことは、ずっと前から知っていました。妻の目や主治医の顔を見れば嘘だってわかりますが、そうでなくても、自分のからだが私は死ぬんだって言ってますから。先生はお若いから言うんですけど、私の話から学んでくださいよ。患者には正直にすること。隠すなど間違っている、そう家族に言わないとだめです。そうしなければ、嘘と誤解がこんがらがって、ややこしくなるだけなんですから」

「なぜ奥さまに、そう言われないのですか?」と私は聞いた。

「妻には病気や私が死ぬことを口にしてほしくないのです。妻には私には食べられないハンバーガーを、病室に持って来つづけてほしいのです。私の退院パーティーを、さもできるというような顔で聞いているほうが、私にはいいのです。退院した後は家ではなくてホスピスに行くのだということはわかっています・・・・・。先生、お願いだからそんな顔をしないでください。私は問題から顔を背けたことなどないのですから。ウイリーとはよく話します・・・・・。彼は、私にとってセラピスト代わりです」

「あなたは勇敢な方だ」と私は言った。

「勇敢の定義は人によって違うものですが、私の言ったことは忘れないでください。さ、お仕事にお戻りください。先生には、年寄りの戯言を聞いている暇などないでしょう。それに、私はもっと眠りたいし」

私の名前を呼び出す放送が聞こえた。手術室では準備が終わっているはずだ。隠し事がなくなり、私の心は軽くなっていた。


私に触って (患者)

私は一人きりだ。私は一人きりで寂しい。私は若いのに、重い病気にかかっている。不注意に生きてきたとか、思慮が浅かったせいではない。人をだましたことも、隣人の不幸を願ったことも、人を利用したことも、いじわるをしたこともない。いままでだって一人きりだったし、いまも一人きりであることに何の変わりがあるわけではない。でも、寂しいと思ったのは今度が初めてだ。

詩人として、私が過ごしてきた時間は、私が創造した現実という包装に包まれた時間だった。その中に人を惹きつけてやまないものを見出そうとしてきた。けれど、一人きりで死んでいくことについて、私は、何の美しさも見いだせない。美も笑いも私を見捨てた。私に残された物は、この病室という現実だけだ。

私の皮膚は青白い。忙しそうに出入りするナースたちも、青白いスモックをまとっている。彼女たちはゴム手袋をしているので、私に触る手は蝋のように白いままだ。毎朝、数名の医師グループが私のベッドの足元に立つ。医師たちはまったく私に触ろうとしない。

昨日の夜は、丸められたペーパータオルがドアに挟まれ、開いたドアのすき間から外の世界が垣間見えた。カールしたあごひげの男性、手をつないだ安っぽい口紅の女性と白黒の縞模様のストレッチパンツの青年、配膳係の女性、遠くから聞こえるみだらな笑い声。

清掃係が病室に入り、床の清掃を始めた。何と幸運な人だろう。しかし、彼女の目は陰気な影を帯びている。清掃が終わると、彼女はため息をついた。着用していた上掛けを脱いだ。あと2,3秒もしたら彼女は消えてしまう。ドアが閉まれば、外の世界の光も消える。

私は、力を絞ってからだを起こすと咳払いをした。清掃係はドアノブから手を放し、驚いて私を見た。純真で無垢な目だった。

「知ってました?・・・・・私が運勢を見ること知ってました?」

口から出まかせの嘘だった。清掃係は好奇の眼差しを向けた。しばらく思案してから、私のそばに寄り、手袋をしていない手を差し出した。

私は彼女のあかぎれてまめだらけの硬い皮膚をなでた。絶望的に触りたくてたまらないのが見えてはいけないと気をつけた。私は掌紋をじっくり見た後、どんなことでも何年もがんばっていれば、きっと最善の結果が得られるだろうと言った。母の姿が浮かんだ。この瞬間、私の母が病室に入って来て、同じ言葉で励ましてくれたらどんなによかったろう。

清掃係は私の言葉に聴き入っていた。私の瞼は重くなったが、この瞬間をむだにしてはならないと話はやめなかった。話す間中、彼女の手を固く握り続けた。やがて、私は彼女を解放し、疲れ切った背をベッドに倒した。夜が更け、私は眠りに落ちた。

私は一人きりで、死のうとしている。私には最後の思いを紙に書き留める力は残っていない。私の作品のほとんどは、私しか読んだことがないし、私の最後の思いも私以外に知る人はないのだろう。

私には一つだけ願うことがある。死ぬ前に、誰でもいい、病室に入ってきた誰かが、私のそばに座り、手袋を取って私の手に触ってほしい。誰かが手袋をとって、ー ほんの一瞬でいいから ー 私に触ってほしい。




第3回 『ある特別な患者 医師たちの人生を変えた患者たちの物語


はじめに 

褒められたい、自慢したい、そういう承認欲求は何歳になっても消えません。高齢者の自慢ネタのベストスリーは、@孫 A健康 B “私の医者” でしょうか。患者にとって医者は特別な存在です。身体の秘密を探り当てる魔術師であり、命を左右する運命の予言者です。患者が、素晴らしい医師(私のヒーロー)にめぐりあった幸運を自慢するのは、自らの健康と長寿が保証されるように思えるからでしょう。

一方で、『医者が心をひらくとき』では、医師たちが、“私の患者”(私のヒーロー)を明かしています。心をひらいて語られた物語は、文学にも匹敵する価値のある尊いプレゼントです。

第3回で紹介するのは、オランダの医師たちが明かした忘れられない患者の物語です。日刊紙「デ・フォルクスラント」に寄せられた130人のコラムからおよそ三分の一を収録して出版されました。

ある特別な患者 医師たちの人生を変えた患者たちの物語 That One Patient
エレン・デ・フィッサー 編 芝瑞紀 訳 サンマーク出版 2020



この中から5編をダイジェストでご紹介します。


ボトルキャップ <鼠経ヘルニア>(血管外科医)

始まりは鼠経ヘルニアだった。「メッシュ法」による手術は問題なく終わったように見えた。ほとんどの場合はこれで治る。しかし、非常に稀ではあるが、手術した部位に慢性的な痛みが生じる場合がある。この患者は運が悪かった。寝ても覚めても、5,6個のボトルキャップをねじこまれているような痛みが術後3年間つづき、仕事もできなくなっていた。「メッシュを取り出してください」と彼は訴え続けた。しかし、前代未聞の取り出し手術を引き受けてくれる医師はいなかった。

「やろう」と、私は腹を決めた。大柄で強面の男が泣き崩れた。ようやく自分を信じてくれる医師に出会ったのだ。体内にさらなる損傷を与えることなくメッシュを切り取るのは至難の業だ。幸い手術は成功した。6週間後、病院にやってきた彼は別人だった。痛みは完全に消え去っていた。私はそのとき、「患者が自分で下した診断は正しい」ことをさとった。

彼は大事なことを教えてくれた。「そうするだけの正当な理由があれば、常識に逆らっても、踏みならされた道を外れる覚悟をもたなければならない」


命綱 <仮病>(神経内科医)

その患者は元かかりつけ医だった。「クリスマスディナーの最中に呼びだしがかかることもあった」などと語る彼の目は生き生きしていた。やがて、症状がおさまり自分のかかりつけ医のもとへ帰った。

3か月後、彼は新たな症状を訴えて戻ってきた。私が詳しい説明を求めると、彼は急に口ごもった。適当な答えをひねり出してその場をしのごうとするかのようだった。さらに数か月後、彼はまた私を訪ねてきた。漠然とした不調を訴えたが、原因はつきとめられなかった。彼がもう一度姿を見せたとき、私は何か事情があるのだと確信した。

「あの・・・本当はどこも悪くないんじゃないですか?」

「きみの言うとおりだ」と私をじっとみつめて彼は答えた。

どうやら、彼は、私を手放したくなかっただけのようだ。彼は、それまで信頼に足る医師がどの病院にいるかを常に把握していたという。彼はそういう医師にしか自分の患者を紹介しようとしなかったし、患者にもそのことを伝えていた。でも、引退を迎えたいまでは、彼の情報が更新されることはなくなった。そこで、彼は私に目をつけた。私を自分の“命綱”と決めたのだ。

「ときどき顔を出しにきてください。架空の病気をでっちあげる必要なんてありませんから。今度はぜひ、医師だったときのお話を聞かせてください」と私は言った。


医者も患者になる <肺がん>(画像下治療医)

16年間、毎日のようにがん患者を診てきた私が、いまやひとりの患者だ。私のなかで大きな変化が起こった。医師は患者の気持をほとんど理解していない。彼らは医学的な観点から「病気との闘い方」についてあれこれ言う。患者の身体に針を刺したり、組織を採取したりするのは彼らにとって日常的なことだ。私は同僚であり親友である医師からそれをされたとき、言葉にならない恐怖を感じた。

がんは精神をまいらせる。常に恐怖に支配され、気の休まる瞬間などまるでない。医師の言葉や行動は患者に多大な影響を与える。しかし医師たちはそのことを忘れがちだ。気にかける時間も余裕もない。彼らは無意識のうちに患者と距離をとろうとする。

私はこれまで、患者のために涙を流したり、家に帰っても患者のことを心配したりすることが何度もあった。でもそういう気持ちは、患者にちょっと気の利いたことを言うだけで、簡単に心から消えていった。私がかけた言葉は無意味なものばかりだった。しかし、私に非があったわけではない。患者がどんな思いをしているかは、本人にしかわからないのだ。

だからこそ、医師に必要なことはただ一つ・・・・・正直になることだ。自分の不安や自信のなさをさらけ出すのは悪いことではない。医師は決して万能ではないと認めたうえで、ベストをつくせばいいのだ。

がんと診断されたあとも、私はできるだけ出勤するようにした。仕事に打ち込んでいるときは心が満たされる。働けるときは働くべきだ。診断を受けてから3年経過した。

「もうしばらく治療に付き合ってもらう」と私の主治医は言った。「もう10年くらいは喜んで付き合うよ」と私は心のなかで答えた。とはいえ、実際にそれを言葉にすると・・・・・たまらなく気が滅入るのだが。


疑念 <自己免疫疾患> (消化器専門医)

その患者は幼い子どもをもつ30代半ばの男性だった。彼は別の病院で膵臓がんの診断を受けていた。しかし、その診断には違和感があった。パズルのピースが足りていない。いくつかの検査を行ったところ、がんではなく、感染症による自己免疫疾患であることが判明した。非常にめずらしい症状で、情報は乏しかったが、治療が効を奏し数か月で腫瘍は小さくなった。

治療から1年後の検査の日、彼は姿を見せなかった。電話をかけて事情を聞いてみると、彼はかかりつけ医の協力を得て、海外の医師たちのセカンドオピニオンを集めていたという。海外の医師たちは、すい臓がんだと診断して手術を主張したそうだ。すでに腫瘍は小さくなっていたので不可能ではなかったのだ。

私はかかりつけ医と海外の医師たちに手紙を書き、私たちの診断とその根拠を説明した。しばらくして返事が届いた。そこには、彼がすでに手術を受けたこと、その結果さまざまな合併症に苦しめられたこと、切除した腫瘍にはがんの痕跡はなかったこと、などが書いてあった。

患者は私たちの診断に疑念を抱いていたのだ。しかし、彼に非はない。責められるべきは私の方だ。私がじゅうぶんに説明しなかったせいだ。めったにないケースだったので、彼は自分の病気に関する情報を見つけられず、少しずつ不信感をつのらせたに違いない。

インターネットの普及にともない、患者は自分から積極的に情報を集めるようになった。医師と患者の関係は、もはや “一方通行” ではなくなった。医師は、患者の疑念や不安を理解し、情報の海で漂流させないために、一緒にゴールを見据えながら、助言を与えていかなければならない。


頑固な女性 <心疾患>(集中治療医)

その60代半ばのイタリア女性は、80歳近い夫の世話を何年もつづけていた。彼女は薬草療法や同種療法に傾倒していた。夫の容体は日に日に悪くなり、とうとう意識を失い、救急車で搬送されたときには生命維持装置が必要な状態だった。クリスマスの前の週に私が働く集中治療室に運ばれてきた。彼女は夫のそばを片時も離れなかった。

容体は悪くなる一方だった。延命治療はほどこさないということで意見は一致した。ところが、クリスマスイブに、彼女はとつぜん考えを変えて「夫を死なせないために、できるかぎりのことをしてちょうだい」と言った。私は彼女に納得してもらおうと、懸命に自分の考えを伝えた。最終的に彼女は納得してくれたようだった。

ところが、なんと彼女は、私たちが「殺人未遂」を犯したと警察に通報したのだ。結局、彼のベッドのまわりには延命のための装置が設置された。夫は話すことも、身体を動かすこともできないまま、病室で生きつづけた。傍には常に奥さんがいて、夫に少しでも異変があれば大騒ぎを起こして、スタッフに罵詈雑言を浴びせてきた。

救いのない日が過ぎていくなか、驚くべきニュースが入ってきた。夫を家に連れて帰るために、人工呼吸器をレンタルしたというのだ。国は人工呼吸器を扱う人を雇う費用は負担してくれない。ところが、彼女は自分で操作できると言った。私はなんとか思いとどまらせようとした。「看護師さんたちが使うのをずっと見てたんだから、間違いっこないじゃない」と彼女は言った。

「患者の意思を尊重する他はない」と病院の顧問弁護士は言った。夏が来る前に、ふたりは家に帰っていった。やるだけのことはやったのだから、と私たちは思った。

それから9か月後、突然、人工呼吸器のメーカーから電話がかかってきた。あの女性の資金が尽きて、これ以上人工呼吸器を貸せなくなったというのだ。「どうすればいいでしょうか・・・・・いまさらプラグを抜くわけにもいきませんよね?」とメーカーの担当者は言った。

私は仰天した。あの女性は・・・・・本当にやり遂げたのだ。9か月ものあいだ、人工呼吸器を操作して夫のケアをつづけたのだ。その後まもなく、彼女は夫を連れてスコットランドに引っ越した。スコットランドなら人工呼吸器のレンタル費用を負担してくれるからだ。

私たちは、最善の選択肢がわかっているつもりでいた。でも、それはまったくの勘違いだった。患者は生きることを望んでいた。彼の奥さんは誰にもまねできない方法で夫を支えたのだ。