ある医学図書館員の軌跡
2015年11月10日


郡司篤晃『安全という幻想 エイズ騒動から学ぶ』を読んで 
─医学図書館員が読む薬害エイズ


(『安全という幻想 エイズ騒動から学ぶ』 郡司篤晃 著 聖学院出版社 2015)


下原 康子


薬害エイズについての私の認識は浅く「産・官・学の癒着の構造」に引きずられていた。安部英医師、郡司生物製剤課長、ミドリ十字はその象徴だった。一方で、郡司さんを追い詰める櫻井よし子さんと郡司ファイルを掲げる菅元厚生大臣はスマートに見えた。しかし、本書を読み、これまで目を向けてこなかった、当時の日本の血液行政、血友病治療の進展、アメリカの事情・動向、エイズ研究の進歩などの背景を知り、今にして初めて正しく考え始めるきっかけをもらった。ジャーナリズムの個人攻撃に行き過ぎがあったことも知った。病を押して本書を残された郡司さんに心から感謝したい。(本書の発行後まもなく郡司さんは亡くなられた)

本書の「第一章:エイズの侵入と初期対応」の前半を読むと、当時、情報量・危機意識・インテンシブ・情熱において、もっとも卓越していた人物は疑う余地なく郡司さんであったと思う。しかし、とても残念なのだが、第一章の後半、エイズ研究班の設置からは郡司さんの当事者としての情熱が感じ取れなくなった。全体として本書に対する私自身の印象は「最終講義」であって「遺言」の感じはない。

医学図書館員の私が薬害エイズに関心をもったきっかけが三つある。

一つ目は、薬害エイズのテレビ特集番組で耳にした医師のことばである。
「エイズ感染の危険を感じてクリオ製剤に切り替えたので、私の患者からエイズ感染者は出ていません」と語っていた。1980年代、医学部図書館でよく見かけていた小児科医で、当時は開業されていた。言葉を交わしたこともないのに印象に残っていたのは、MeSH(MEDLINEの件名表)の古い版を長期貸出して欲しいと頼まれたことがあったからだ。当時コンピュータ検索といえば、JOISのオンライン検索のみで、通信環境が悪い上に有料でとても身近とは言えない状況だった。それで「すごいな」と記憶に残っていた。

二つ目は、本書中に引用のある1995年のHIV訴訟の和解勧告の所見の中にある次の文言である。

「当時(1983年頃)厳密な科学的見地からはエイズの病因は確定しておらず、エイズウイルスも未だ同定されていない段階ではあったけれども、米国政府機関等の調査研究の結果とこれに基づく種々の知見に照らすと、こと血友病患者のエイズに関する限り、血液又は血液製剤を介して伝播されるウイルスによるものとみるのが科学者の常識的見解になりつつあったというべきである。」

引用の最後「科学者の常識的見解になりつつあった」という文言を、郡司さんはきわめて曖昧な表現とされたが、医学図書館員の私は文字通りに受け取り、<種々の知見>を確認するため、MEDLINEで血友病×エイズの狭い(Focus)検索をしてみた。すると、厚生省のエイズ研究班が設置された1983年だけですでに32件がヒットした。発表された雑誌の多くは、次のような有力誌だった。 Lancet(6)Ann Intern Med(5)N Engl J Med(2)JAMA(2)Nature(1)Science(1)BMJ(1)J Pediatr(1)J Clin Invest(1)その他(12)。(MEDLINEは遡及してindexingされるので現在検索するともっと増える)

実は、私が本書の中でもっとも興味深く読んだのは、1982年8月、元輸血学会の会長だった村上省三先生から著者に届いた比較的長い手紙である(全文が引用されている)。そこには
「わが国でも血友病患者が犠牲になる時が来ることは可能性の大きいことだろうと思われます。すでに発症を見ているのではないでしょうか。」とあった。また、次の一文にも注目した。

「図書館の虫と呼ばれていた村上先生からは、引き続き大量のエイズ関係の文献が送られてくるようになった。直接にうかがったことはないが、村上先生が誰かに依頼して集めていた文献を二部コピーして、その一部を私に送るよう指示してくれていたようだ。」


この“誰か”が、医学図書館司書であってもよかった、と思った。

郡司さんは平成8年4月19日の厚生委員会に参考人として出席し、次のように発言しておられる。
国会会議録検索システムで読むことができる)

「確かに、私は個人的な情報チャンネルから情報を得ました。それは、村上先生という方、それから、その先生から送られてきた封筒には東京都血液事業団という名前がありましたので、その組織も助けてくれているのだなというふうに思いましたが、その当時、エイズに関する文献はほとんど届けていただいておりました。しかし、考えてみますと、それがなかった場合、恐らく情報は私の手元には来なかったのではないかと恐れるわけであります。したがって、こういった危機管理のためには、どのようにして情報を収集するかということをもう少し公的な形でつくっていただきたいというふうに思うのであります。」
(第136回国会 厚生委員会 第11号 平成八年四月十九日 1996)

当時、現在のようにインターネットが普及していたら、事態は大きく変わっていただろう。もちろん、多くの混乱もまた生じたに違いないが。

関心を持ったきっかけの三番目は、郡司さんが理事長をされていたNPO医療の質に関する研究会の「患者図書室プロジェクト」だ。2006年ごろ、当時、がん専門病院の患者図書室で働いていたので、ご相談を受け4度ばかりお会いしたことがある。威張ったところが少しもない方だった。郡司さんを存じ上げていることを伝えたら、「HIV問題から何を学ぶべきか」という論文を送ってくださった。多少なりとも理解して欲しいと思われたのだろうか。しかし、当時の私は論文を読みこなせなかった。「患者図書室」に対する私の思い入れに頑固なものがあったので、プロジェクトの活動を手伝うことはなかった。最後になった電話で「目指すところは同じだからお互いにがんばりましょう」と穏やかに言われた。