康子の小窓 読書日記
初出:地域医療ジャーナル 2021年12月号



「絶望読書」のすすめ ─ 絶望の時には絶望の本を

下原康子

はじめに

良い患者図書室を持つ病院には悪い病院はない

2021年10月、コロナ感染者数の減少が顕著になったころをみはからって、千葉県にあるがん専門病院を訪ねました。2020年10月に完成した新病院の中にリニュアルオープンした患者図書室を訪問するためです。これ以上望めないほどの一等地にその患者図書室はありました。

私はリニュアル前の患者図書室で、開設から7年間(2006.5〜2014.3)司書として働いていました。このたび、広く明るく快適に生まれ変わった新生患者図書室を目の当たりにして、心底感動しました。

「病院機能評価」設立に尽力された牧野永城先生は、「良い病院図書室を持つ病院には悪い病院はない」と言われました。近年の病院図書室は情報検索機能に重点が置かれ、電子リソースの増加に伴って本の収集が減少しつつあります。(医学図書館にもその傾向があります)いきおい、図書館の場所と人の比重は軽くなりがちです。

しかし、この患者図書室には、書店や公共図書館ではみつけにくい優良な本が、それを求める患者さんたちのために収集されていました。医学系図書館経験のある司書の常駐が確保されていることが大きいと思います。

PCより本好き司書の私は「良い患者図書室を持つ病院は良い病院である」と思わずにはいられません。収益を最優先しない患者サービスは、病院の姿勢と懐の深さの現れのように感じます。患者図書室はその目に見える好例の一つではないでしょうか。

患者図書室挑戦の記録  一期一会の思い出と共に (下原康子)




頭木弘樹『絶望読書 苦悩の時期、私を救った本』

患者図書室における司書の第一の役割は「医学情報を通して病気と向き合う患者さんやご家族を支援すること」です。私自身、医学図書館員の経験を活かすことができるとはりきっていました。

ところが、じかに患者さんたちに接していくうちに、少しずつ、ある疑問が兆してきました。患者さんのなかには「医学情報」ではない他の「なにか」を求めている人が少なくないということに気づき始めたのです。

30代くらいの女性から「受容の気持ちになれる本はありませんか」と聞かれたことがあります。そのときの私には情報提供どころか、返す一言さえ、みつけられませんでした。終えていない「宿題」のように、退職後も、この女性の問いが、胸につかえたままでした。

いまや、私自身も「 老い・病い・死 」に対峙する時を重ねながら、この女性の問いに思いをめぐらせる日々をすごしています。

ヒントを与えてくれる本がありました。それが、この一冊です。

頭木弘樹『絶望読書 苦悩の時期、私を救った本』飛鳥新社 2016
(康子の小窓 読書日記)


頭木弘樹さんは、大学3年の20歳のときに潰瘍性大腸炎を発病し、13年間の闘病生活を強いられました。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、2011年に『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社)を出版。その後、『絶望読書 ―苦悩の時期、私を救った本』(2016年、飛鳥新社)、『絶望図書館 ─立ち直れそうもないとき、心に寄り添ってくれる12の物語』、『NHKラジオ深夜便 絶望名言』(2018年、飛鳥新社)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(2020年、ちくま文庫)、『食べることと出すこと(シリーズ ケアをひらく)』(2020年、医学書院)などを出版。本や雑誌に、またラジオやテレビなどで、自ら文学紹介者と名乗って活動されています。

頭木さんは、著作やラジオで文学者の絶望名言の数々を紹介しておられるのですが、ご自身の絶望名言もまた、とても素晴らしいのです。『絶望読書』の中から、紹介させていただきます。

頭木弘樹さんの絶望名言

●絶望において大切なのは絶望の時期の過ごし方です。立ち直り方というのは、倒れた状態からいかに起き上がって、また歩き出すかということです。でも、人はいったん倒れてしまうと、そうすぐには起き上がれないときもあります。

●起き上がれないときを、倒れたままでいるときを、いかに過ごすか。それがけっきょくは、立ち直りにも一番大きく影響します。

ちなみに頭木さんのお気に入りは、カフカの以下の超ネガティブな絶望名言です。

  
将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
  将来にむかってつまずくこと、これはできます。
  いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。

●「古典というのは、時代が変わっても、ずっと読まれ続けてきたものです。つまり、人々にとってそれだけ切実に必要だったものです。人が本をもっとも必要とするのが絶望のときであるなら、古典として残るものに、絶望的なものが多いのは当然のことでしょう。

●絶望の中にあって、どうしていいかわからない人間が、絶望の物語の中に救いと答えをもとめるのです。

●これは自分だと思える本との出会い、「この本だけが、今の自分の気持ちを理解してくれている」あるいは「今の自分だけが、この本を本当に理解できる」と思える本との出会いが、絶望しているときには、とても救いになります。

●いっしょに泣いてくれる人がいるというのは、とてつもなく大きなことです。問題は解決しなくても、そういう人がいるかいないかは天と地と言ってもいいほどの違いです。

●ただそういう人はなかなかみつかるものではありません。短期的にはいっしょに泣いてくれる人もいるかもしれません。でも長期となると、当人以外の涙はどうしても乾いてしまいます。

●当人以外は、ふとした瞬間に、心配を忘れます。ほんの一瞬にしろ、解放されるときがあります。

●しかし、当人は、そういうことはありえません。つねに絶望しています。24時間休みなしです。一瞬でも他の人に代わってもらうことができません。

●一瞬にしろ解放される周囲の人たちを見て、絶望する者は、自分がとても孤独であることを知ります。それまでに感じたことのないような、ぞっとするような孤独です。

●そんなとき、それでも連れになってくれるのが、本だと思うのです。いっしょに泣いてくれるのが本だと思うのです。自分には誰もいないと思ったとき、それでも本はいてくれるのです。

●絶望の底にじっと沈んでいるとき、ずっといっしょに沈んでくれるのは、本だと思うのです。

●生命をおびやかされ、どうしていいかわからない、精神的に追い詰められたときこそ、本を読みたくなるのだと思います。

●まだ、名前のついていない現実をかいまみて、おびえて開くのが、本と言うものです。

●もちろん、文学に限りません。音楽、絵画、演劇・・・すべての芸術は同じでしょう。

●「極限状態では、芸術どころではない」と思ってしまいがちですが、実際には芸術は贅沢な教養どころか、命綱なのです。

●ですから、できることなら、普段から、まだ何も起きていないときから、芸術にふれるようにしたほうがいいと、私は思います。災害が起きる前から、避難訓練などをしておくように。

●ノンフィクションではあつかえないことでも、フィクションはあつかうことができるのです。実話では出てこない絶望が、物語ではじっくり深く描かれるのです。そこが物語の素晴らしいところです。

●日常生活のウソは真実を隠すためのものですが、物語のウソは真実を描くためのものなのです。

●本は暗い道を歩く連れになってくれるだけでなく、現実を照らし出してくれる懐中電灯でもあります。

●暗闇に光を求めるからこそ、絶望の物語が必要だと思うのです。

●なぜ世の中には本というものがあって、こうも長く読み続けられているのか?その理由のひとつは、人は絶望するからだと言っていいくらいだと、私は思っています。今は必要ないと言っている人も、切実に求めるときがあると思うんです。

●トルストイは「逆境が人格を作る」、シラーは「真に向上するのは不運の時だ」と言いました。そういう人たちは「創造性」が高まっているという心理学の研究があります。

●肝心なのは立ち直りの道を早く見つけることではありません。肝心なのは、「絶望の時間」をいかに過ごすかということです。「絶望読書」は必ずあなたの力となるはずです。