康子の小窓
 
   康子の小窓 読書日記


2016.5 開設 

闘病文学のページ
 より続く 本読む人 ことばの花束

更新のお知らせ 


11 ウェブマガジン 地域医療ジャーナル(月刊)で「医学と文学」の連載を始めました。連載タイトルは 康子の小窓 更新のお知らせ をごらんください。
2021.8.1
10  小酒井不木とドストエフスキー 2021.3.21
9  ダニエル・デフォー『ペスト』を読む 新型コロナ過の最中に
追記:与謝野晶子のことば
2020.5.10 
8  バルザックが見た「司書」(『役人の生理学』より)  2019.11.12
7 映画「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」  2019.5.27
6  図書館巡礼:「限りなき知の館」への招待  2019.5.20
5  絶望読書 苦悩の時期、私を救った本  2018.8.29
中井久夫さんを読む  2018.1.26
3 司書 宝番か餌番か 2016.6.4 
2 ブラックジャック 第124話 六等星  2016.5.21
1 刑務所図書館の人びと ハーバードを出て司書になった男の日記 2016.5.15


2019.11.12
バルザックが見た「司書」(『役人の生理学』より)

バルザックが書いた「生理学もの」(『結婚の生理学』『ジャーナリストの生理学』『役人の生理学』など)は、文学とジャーナリズムのつながりに気づかせてくれます。両者の共通点はズバリ「観察」。今では全集や文庫に古典として収められている「生理学もの」ですが、もとは19世紀なかごろパリで大流行した娯楽小冊子だったそうです。文豪の筆で戯画化されているとはいえ、例えば『役人の生理学』で観察されている役人たちは、現在日本の官僚機構に生息するピンキリの役人たちにそっくりです。バルザックは「司書」まで取り上げてくれていました。その箇所を全文引用します。

役人の生理学 バルザック著 鹿島茂 訳 筑摩書房 1967
第6章 いくつかの幻想的な存在について
 

官僚機構のさまざまな歯車である、[試補、謄本係、書記、課長補佐、課長、局長]などを分析する前に、ここでひとつ、お役所の流星ともいえる、司書、大臣秘書官、現金出納係、建築家、海外視察員などのことを語っておかなくてはならない。こうした役人たちは、役所でほとんどお目にかからないにもかかわらずちゃんと俸給をもらい、ときたま現われてはまたすぐに姿を消し、そのうちふたたび現われるというような意味で幻想的な存在であるといえる。かれらは、閑職、つまり《気楽な稼業》の最後の占有者である。実際、かれらは、自分たちの地位に関しては、すっかり安心しきっており、なにもしないか、あるいは自宅でだけ仕事をする。役人たちは、天文学者が彗星を見かけるのと同じほどまれにしか彼らの姿を目にしない。

司 書

官庁でなぜ司書が必要なのか? はたして本を読むひまのある者などいるのか? 大臣か、はたまた試補か? いったい司書のために図書館を作ったのか、それとも図書館のために司書を作ったのか? 大部分の官庁には司書がいる。我国の最も優れた詩人の一人(ミュッセ)を或る省の司書に任命した際、オルレアン家の若い公爵が笑いながら詩人にたずねた。「ところで本などあるのですか?」「私がこれから書きます」と詩人は答えた。

何百冊かの本を集めてひとたび図書館ができあがると、さっそく司書の下で働く役人が一人必要になる。その役人の仕事は本の埃を払い、当の閑職の御仁の自宅まで、毎月、袋につめた三百フラン(日給にして約十フラン)とサインすべき帳簿を持っていくことである。

下院、貴族院、大臣、国王などは、二、三の特殊博物館(海軍博物館、模型博物館、戦争コレクショソなどがある)と同様、これら五つの閑職を保存するようぜひ努力してほしいものである。何人かの大詩人や、売れない作家たちが糊口を凌ぐための道なのだから。教授や司書といった、いわゆる文学的な地位は、それほど多くはないので、居心地もよく身入りもよいこうした素晴しい閑職を廃止するようなことは断じてあってはならない。それに第一、かならずしもこうした職業に、大詩人や文芸に一生を捧げた作家が任命されているとは限らないではないか! フランスの支配者たちは、一八三〇年の七月革命の際、自分たちが、フランスの紋章のデザインの一部に一冊の本を付け加えたことを思い起すべきだろう。そればかりではない。千エキュの俸給を食む司書は、千エキュの負債を負った覚悟でいるから、やがては一年に少なくとも千エキュ分の税金を財務局の金庫に戻すのである。

このような強力な宣伝をしたからといって、この『生理学』がどこかの司書から袖の下をもらったのだろうなどと下司の勘繰りをするのはやめていただきたい。筆者は、どこからもビター文受けとってはいない。

ところで図書室のない省のひとつに、文部省がある。思うに文部省は、大学や宗教教育の団体に関するすべてのもの、すなわち政治教育、私学教育、宗教教育、教育体系、教育計画等についての書物を一堂に集めた特別な図書室を持つべきだろう。また、最も興味深い文書を集めているのは外務省の図書室であるが、ここは一般には公開されず、《公文書保管所》なる仰々しい名で呼ばれている。

各省の司書が責任をもって関連知識を身につけ、その省に必要な本や計画、改良案などを即座に教えることができるようになったらその司書は、当該官庁にとってはたいへんな戦力となること請けあいである。だが、その場合にはかつてのヴェネチアにあった大臣顧問のような存在になり、これだけの知識を持つ人間をそばに置いておくためとあらば、どうしても二万フランの俸給と副司書が一人必要になってしまう! 神よ、こうした生き字引きが存在しつづけんことを、アーメン。
 

各省の司書が責任をもって関連知識を身につけ、その省に必要な本や計画、改良案などを即座に教えることができるようになったらその司書は、当該官庁にとってはたいへんな戦力となること請けあいである。」バルザックの慧眼に拍手!

21世紀において同じ主張をしている人がいます。以下の論文は片山義博氏が鳥取県知事のときに書かれたものです。その中でまさしく「当該官庁にとってはたいへんな戦力」になった県庁図書室司書の働きを紹介しています。
片山義博. 図書館のミッションを考える. 情報の科学と技術. 57(4), 2007.





2019.5.27
映画「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」
監督・制作・編集・音響 フレデリック・ワイズマン

図書館が創造するマジックリアリティー

付き合いの長い女性司書仲間5人でこの映画を見ました。満席でした。想像をはるかに超えた内容の豊かさに惹き込まれ、3時間45分を少しも長く感じませんでした。アメリカ社会の心騒がせるテーマを含みながらも、全体としては非常に満ち足りた幸せな気分に浸れました。想像を超えている一方で、夢が実現したような感覚もありました。それは文学から受け取る印象にも似ています。「マジックリアリティー」ということばが耳に残っています。そういえば、ピクチャー・コレクションのスタッフは、「資料はインスピレーションと想像力で探す」と語っていました。

ところで、この映画を観た前日に、思い返すと「予兆」のような出来事がありました。私が通う近隣の公共図書館でのことです。書架の間をぶらついていたら女装した中年男性の姿が視界に飛び込んできました。化粧はしていませんが、ひらひらした黒のミニスカート、黒い薄手のストッキングが目立ちました。書架から本を取り出す、そのしぐさはとてもエレガントでした。私はといえば、急に話かけたい気持ちが湧きあがったのです。街中や電車のホームだったらそんなことは思いもよらなかったでしょう。もちろん実行はしませんでしたが、なぜか親しみを覚えたのは事実です。ジロジロ見るような人は周囲に一人もいませんでした。翌日、映画を見て、図書館がそういう魔法が現れる場所である理由がわかりました。

ワイズマン監督の映画を観たのは初めてでしたが、その編集の素晴らしさは感じ取れました。
「僕の作品は、その場所で行われている日々の営みについて印象を与えることを目指して、何千もの選択を行った結果生まれたモザイクなんだ。それが僕の作品のテーマだ。完成した作品は印象主義的で、決定的でも包括的でもないんだ」とインタビューで語っています。大学では専攻の法律よりも詩や文学に没頭したそうです。「僕の映画編集に一番影響を与えたのは、大学で教わった詩や小説を丁寧に注意深く読み解く方法だろう」と述べています。(パンフレットより)

48のシーンでつながれたモザイクがニューヨーク公共図書館のミッションを浮き彫りにしていきます。なかでも「マイノリティーと図書館」がワイズマン監督とマークス図書館長が共有する最大のテーマの一つなのは明らかですが、映画はあくまでも図書館の日々の営みに参加している人々の姿を淡々と撮影しています。来日した渉外担当役員のキャリー・ウェルチさんが語っているとおり「絶秒のユーモアがそこかしこで味わえます」。一方で、「今のニューヨークで一銭も払わず安心して時間を過ごせる場所というのは図書館くらいしかありません」というキャリーさんのユーモアもなかなかです。

もう一つ興味深いインタビューを引用します。
「この映画を撮ったのは2015年秋だから、トランプのことはまったく念頭になかった。ただ、いいテーマだと思って作ったにすぎない。でも、トランプが選ばれたことで、もともとのテーマとは関係ない理由から政治的な映画になった。ニューヨーク公共図書館はトランプが破壊したいと考えている、アメリカの素晴らしい民主主義の伝統を象徴している。すべての人々に門戸を開くという民主的な考えこそがアメリカのバックボーンだ。トランプはアメリカの代表者ではない。たとえ大統領であってもね」

司書としての感想

元司書として注目したのは、図書館の幹部たちの会議です。そのシーンは7回あります。各会議のテーマは、@予算の使い道 A弱者のためのIT設備の充実 B行政との関係づくり戦略 C図書館はデジタル生活に不可欠か Dホームレス問題 E電子本か本か、ベストセラーか推薦図書か F資金を得るための政治家へのメッセージ です。この中で、DとEは日本の図書館でもなじみのある問題です。その他のテーマについては日米の背景に大きな違いがあり単純には比べられません。とはいえ、これらの議論は日本の図書館の未来を考えるための参考になるでしょう。

図書館関係者は、映画がおもにうまくいっている図書館の外側にスポットが当てられ、図書館の内側はあまり撮られていないという感想を持つかもしれません。ワイズマン監督は原題の「エクス・リブリス」(「だれそれの蔵書から」という意味のラテン語)の示唆するところを次のように話しています。
「ここで起きるすべての出来事を見せた、という気はない。悪意に満ちた残酷で心ない行いを見せるのも大切だが、他の人のためになるサービスを提供し、いい仕事をしている人たちの姿を見せることも同じくらい重要だと思う」
映画の中で誰かが(表現は違うかもしれませんが)「面倒な仕事をしてください。面倒を解決しなければならない人たちのために」と語っていたのを記憶しています。

私自身の35年前の記憶が蘇りました。
「医学図書館員としての生きがい−図書館員と情報−」


最後に。図書館の壮大なホールや贅沢な閲覧室の景観に加えて、いくつかの場面の背景に、なつかしの目録カードケースが映っていたのはうれしい発見でした。

P.S.
『書物の破壊の世界史』
(フェルナンド・バエズ 八重樫克彦・八重樫由紀子訳 紀伊國屋書店 2019)にロスアンゼルス公共図書館の火災(1986年4月29日)の記載があります。そこに掲げられた一人の作家の詩を引用します。これぞ「公共図書館賛歌」ではないでしょうか。

ひとつの夢の火災

チャールズ・ブコウスキー

昔なじみのロスアンゼルス公共図書館
かなりの確率で
この俺が
自殺者、
銀行強盗、
妻に手を上げる男、
冷血漢あるいは警察のバイク野郎に
なるのを回避させてくれた場所
自分の運のよさと
めぐらざるを得なかった道のりのおかげで
誰かにとってはいいやつにすらなれる、
そんな状況をもたらしてくれた
あの図書館は、若き日の自分が
すがりつける何かを
当時さほど多くなかったはずの
すがりつける何かを
探し求めた頃にはそこにあった。

新聞を広げた俺は
そこに火災によって
あの図書館が崩壊し
あそこにあった本の
大部分が消滅したと
報じる記事を読んだ。

思わず妻に話しかける
“俺はあそこで何時間も
それこそ時間を忘れて
過ごしていたもんだ”





The library at Holland House in Kensington, London,1940, extensively damaged by a Molotov 'Breadbasket' fire bomb. (Photo by Central Press/Hulton Archive/Getty Images)



A boy sits amid the ruins of a London bookshop following an air raid on October 8, 1940, reading a book titled "The History of London."





2019.5.20
図書館巡礼:「限りなき知の館」への招待
スチュアート ケルズ 著 小松 佳代子 訳
早川書房 2019


この本は「お気に入りの図書館に閉じ込められたい」という私の秘めたる夢想を思い出させました。『クローディアの秘密』の少女は家出先に「メトロポリタン美術館」を選びましたが、私ならこの本に登場する図書館のどれかを選ぶでしょう。本書は、古今東西、様々に生きていた、また現在も生きている「“図書館に閉じ込められたい”症候群」の人々の存在を身近に感じさせてくれました。

ユニークな章立てによって、図書館の歴史(本の獲得・収集・売買、写本、管理、建築、公開、略奪・盗難・破壊・災害・散逸、修復・再建 など)を興味深くたどりながら、図書館のイメージ(人類の過去と未来)を新たにしました。一方で、図書館の蔵書に寄与した多くの「本に心を奪われた人々」の肖像に、よりいっそう心惹かれました。本書の最後はロシアの作家プーシキンが死の床で自分の本たちにかけた最後の言葉で結ばれています。「さらば、友よ」。

時には読書を妨害するインターネットですが、本書に限っては必携です。登場する図書館は、アレクサンドリア図書館、ボドリアン図書館、ザンクト・ガレン修道院図書館、アドモント図書館、ヴァチカン図書館、ダブリン大学トリニティー・カレッジ図書館、フォルジャー・シェイクスピア図書館、ピアポント・モルガン図書館、ボストン公共図書館 等々。

当然のことながら画像・映像が見たくなりますし、歴史的背景を確認したり、登場人物について詳しく知りたくなります。本を傍らにインターネット探索をしていたら、
バチカン図書館における歴史的手書き文献のデジタルアーカイブに参画」というページに出くわしました。「NTTデータがバチカン図書館と、同館が所蔵する手書き文献のデジタル化及び長期保存事業における契約を締結した」とのこと。人類遺産の保存に対する日本ならではの素晴らしい貢献だと思います。将来、資料のみならず図書館を丸ごとバーチャルで再現することも可能でしょう。そのとき、私はそこに「閉じ込められたい」と思うだろうか?、ふと、そんなことを考えました。

ところで、本書は私に二つの思いがけない収穫をもたらしてくれました。一つは、気になりながらも近寄りがたかった3つの小説『バベルの図書館』『眩暈』『薔薇の名前』が積極的に読みたくなったことです。小説を読んだうえで、映画『薔薇の名前』を、特に修道院図書館の場面を観返したいと思っています。「バベルの図書館」を再現したWebサイト公開 Library of Babel

二つ目の収穫は私が司書であることと関係していますが、「第8章:本の管理者―史上最高の司書と最悪の司書」に登場する17世紀のフランスの司書ガブリエル・ノーデを知ったことです。彼はフランス国王の宰相であったマザラン枢機卿の依頼でマザラン図書館を設立し、図書館長の「究極の理想」と称せられた人物です。ノーデは書誌学者・思想家としても影響力を持っていました。彼が考えた図書館設立の核心は収書にありました。「時代の新旧を問わず、おもだった重要な著者をもれなく集めること」という厳しい方針にそって10年の歳月をかけて構築したマザラン図書館は驚くべき水準に達し、ノーデの思想と共に後の啓蒙主義を代表する人物(司書も含まれる)たちに大きな影響を与えました。ノーデはまた、1627年に「図書館設立のための助言」という本を書きました。1661年には英訳本が出版されました。「あらゆる学術分野の最も重要な書物を原語と翻訳によって揃え、万人に開かれた図書館の設立に向けた道筋を打ち出した」著作でした。ちなみに最悪の司書の一人は、16世紀のイタリアの画家ジュゼッペ・アンチンボルドが描いた『司書』です。「圧倒的な博識への風刺」「文人たちの浅ましい性根」などの解釈がある一方で、実在のモデルも突きとめられているそうです。

「図書館設立のための助言」を(今更ながらですが)読みたいと思いました。国内では2006年に「図書館学古典翻訳セレクション1」として出版されていますが、現在は絶版でアマゾンでも扱っていません。CiNiBooks検索によれば62機関で所蔵していますが、私の住む市の公共図書館にはありません。そんなとき、本文の一部分を引用しているブログに出くわしました。なんでも「後輩の研究者が原語から翻訳して送ってきたものだが、素晴らしい内容だ。彼は発表先を探している」とのことです。もしや、と思ってCiNiiArticlesを検索したら、これが当たりました。以下の2つの論文です。

1.
ノーデ 図書館創設のための提言 新訳(上)
Naude Gabriel , 伊藤 敬 [訳]
日仏図書館情報研究 (41), 37-59, 2016
2.
ノーデ 図書館創設のための提言 新訳(下)
Naude Gabriel , 伊藤 敬 [訳]
日仏図書館情報研究 (42), 45-58, 2017





2018.8.29
絶望読書 苦悩の時期、私を救った本
頭木弘樹 飛鳥新社 2016


次の3点で感服した本でした。

@ “絶望読書”というコロンブスの卵とも言うべき清新なる発想 
A 実感のこもった豊かなことばとあたたかな表現
B 独創的であるがゆえに効果的な古典文学へのすすめ

私は5年前までがん専門病院の患者図書室で7年間司書として働いていました。患者図書室の最大の役割が病気に関する情報提供であることはもちろんです。けれども一方で、訪れる患者さんたちの中には病気の情報以外の“なにか”を望んでいる人も多かったように思います。「病気の本は読みたくありません」という人も少なからずおられました。その“なにか”が「パスカル的気晴らしの時間」かもしれないと私は気づき始めていましたが、戸惑いが先立ち、情報サービスに逃げていたかもしれません。このたび『絶望読書』を読んで患者さんたちのつぶやきが次々思い出されました。

・医学情報よりもまずはキモチを立てなおしたいです。

・カラダの治療が一段落ついたころからココロがつらくなってきました。

・治らないのはわかっているので「闘う闘病記」は読みたくありません。

・昔から読書好き。とりわけ今は心を支える本が必要です。

病気の本より小説が読みたいねえ。

・いい本がいっぱいあるね、生きている時間が少なくなって残念だよ。

・自殺未遂を3回も繰り返したが、がんになって本を読む時間が欲しくなり、生きたくなりました。

・いい本を読んでいると死ぬのが前ほど怖くなくなってきました。

・若いころ読んだ小説が読みたいです。

・『出家とその弟子』を手にとって「若いころ感動した本です」

・トルストイ『イワン・イリッチの死』を読んだ女性「ロシアの名前がややこしかったけど、読み進むにつれて引き込まれていきました」

・「闘病本」を読むお母さんの傍らで、娘さんが一言「こういう本を読む母の気持がわかりません。ますます落ち込むのではないでしょうか」

・『死ぬ瞬間』は以前は挫折した本ですが、今は読みこなせました。

・医学書院の「ケアをひらく シリーズ」にはいい本が多いですね。

大野更紗『困っているひと』を持参した患者さん「この本いいですよ」。(さっそく注文)

・70代女性。「通院が長いのでいつも利用させてもらっています。ここでしか読めないいい本がたくさんあり、利用しないのはもったいないです」と次々に読破。

・当初は病気の本を読んでいたけど、今はいらない。ふつうの本が読みたいです。

・テレビより本がいいな。

・登場人物が多くてややこしかったけど、乗り切ったらいっきに引き込まれました。

・「闘病記を書く作家ってこんなにいるのね」とあるナース。

・何の本を読んだらいいのか、そもそも読みたいのか、読みたくないのかもわからない。

患者図書室司書のモデルは 「 銀座の高級クラブのママ 」。その心は、「幅広く人の話が聞ける 」。


一人の女性から「受容の気持になれる本ありますか」と聞かれたときの困惑が忘れられません。一瞬虚をつかれて、私はひどく動揺しました。ターミナル関連の本やがん患者の闘病記、また「闘病文学」というコンセンプトで収集していた文学書などをそろえていたにもかかわらず、そういう質問を具体的に思い浮かべたことがなかったのです。文学好きの私ですが、『絶望読書』という発想の転換はできませんでした。結局、まともに答えられず「気が向いたらまたのぞいてくださいね」と言うのが精いっぱいでした。あのとき『絶望読書』があったらよかったのに、と思います。

本書の中にすてきなエピソードがあります。入院中に著者が読んでいた『カラマーゾフの兄弟』に同じ病室の患者さんの一人が興味を惹かれます。ビジネス本しか読んだことがない人でしたが、借りて読み始めるとたちまちのめり込みます。その熱は他の患者さんにも広がりました。やがて、同室の患者さん6人全員がドストエフスキーを読んでいるという状況になり、看護師さんをびっくりさせたというのです。私も何度か入院経験がありますが、あえて分厚い古典文学を選んで持っていったものです。生涯つきあいたい、そういう作家との出会いは大の親友を持つのと同じくらい得がたい幸運であることを本書が教えてくれています。





2018.1.26
中井久夫さんを読む


「高齢のため来年からは失礼いたします」数年前、ある知人(女性)の年賀状にそうあった。続けて「本も読まなくなりましたが、中井久夫さんだけ読んでいます」と記してあった。今になってその心境が理解できる。私自身も中井久夫さん(私もこう呼びたい)を熱心に読み始めている。何か書き留めたいと思う。雲を掴むような感想にすぎないが、中井さんを私の記憶に索引しておきたい。

最初に読んだ中井さんの本は『日本の医者』だった。楡林達夫という著者が2010年に書いたものとして読み進んでいたが、臨床研修医制度の記述にひっかかった。実は1963年から66年にかけて書かれたものと知り、三十余年の隔たりをまったく感じなかったことに仰天した。

2011年、東日本大震災の直後、ノンフィクション作家の最相葉月さんの計らいで、中井久夫さんが阪神大震災のとき書かれた「災害がほんとうに襲ったとき」の全文がインターネット公開された。「花と書籍が行きわたることが被災地の正常化の目安の一つ」の一言にうなずいた。想像を絶する連日の映像で麻痺しかかっていた感覚が正常化したように感じた。当時、がん病院の患者図書室で働いていたので、全文を印刷・製本して蔵書に加えた。

『看護のための精神医学』(山口直彦共著、医学書院、2004)『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院、2007)『臨床瑣談』(みすず書房、2008)『続・臨床瑣談』(みすず書房、2009)も蔵書に加えた。病気になったときのバイブルは中井さんの本と決めた。『こんなとき私はどうしてきたか』(精神科病院で行われた連続講義)を読んで以来、中井さんの精神科の著作をいつかは読みたいと思い続けてきた。おりしも2017年からみすず書房で中井久夫選集(全11巻)の刊行が開始された。新刊書を買う余裕はないので、時には予約待ちをしながら、公共図書館で借りて一冊ずつ大切に読んでいる。

患者さんのことを語る中井さんのことばがどうしてこうも胸に響くのだろう。『こんなとき私はどうしてきたか』というタイトルが示すように、中井さんは「私」(まれに「私たち」)の視点で書かれている。多くは「精神科医の私」で、中井さんの視野には、亡くなった人たちも含めて、患者さん・ご家族をはじめ中井さんの周囲の大勢の人たち、見ず知らずの読者、未来の読者まで入っている。だから、私は、ある箇所では、患者として、介護者として、また、べつの箇所では妻として、母として、娘として、友人として、日本人の一人として、中井さんのメッセージを受け取る。

中井さんは言われている。「証拠にもとずいた医学(EBM)」とともに「ダメでもともと医学(ダメもと医学)」があっていい、とにかくお金がかからず無害なことならなんでもいい」。実にスカッとした。がん患者さんたちに、また医療者以上にEBMを信奉している医学図書館員に聞かせてあげたい。

「中井さんならどう思われるだろう」しばしばそう思う。親身に相談にのってもらえそうな気がする。一方で、同じ時代、同じ国に生きているのに、遥かかなたの星から世に棲む人々を観察しておられるような、中井さんにはそういう感じがある。近くて遠い不思議な方だ。でも、読んでいる時はたとえ理解できなくてもとても近しい。中井さんは「またか」というようなことは決して言われない。かといって意表をつくわけでもない。徴候はあったが、中井さんのように語った人がいなかったので気づかなかっただけかもしれない。

中井さんの「プロ的エレガンス」。たとえば「ifを使ったやわらかな言い方」「ハヒフヘホの合いの手」「興奮した(好意が持てない)相手に “きみも大変だね、本当はいい人なんだよね” と心につぶやく」など、ふだんのコミュニケーションでも実践できたらよいと思う。しかし、自分のよくないクセを自覚するのが先決のようだ。私にはきめつける傾向がある。「してあげる」「しなくっちゃ」を多用する。それが会話の調子を損ねつまらない雰囲気にしていた。中井さんに気づかせてもらったことだ。

「文は人なり」がこれほどピッタリする人を他に知らない。とにかく心地よい文章で、いつのまにか眠ってしまうことはあっても飽きることはまずない。中井さんが診察室に飾られていたクレーの絵の印象に似ている。読書がおのずと精神療法になっている。

中井さんは「解説」や「まとめ」をなさらない。研究を体系化することもあえてされなかったという。「社会的発言」も少ない。あるのは、中井さんの心に宿る患者さんたちとの物語。ウィットに富んだ折々の対話。イメージ豊かな静逸な時間から紡ぎ出される言葉。ただし、震災のときの活動については精力的に書かれた。

臨床医、学者(理系文系問わず)、文筆家、詩人など、中井さんはどの職業を選んでも一流の仕事をされただろう。でも、精神科医になられて本当によかったと思う。中井さんの本を読む前は精神科の患者さんのことを「妄想にとらわれたおかしな人」と思っていた。今は「不安であせっている人」「混乱し疲れて困っている人」というふうに感じる。自分と無縁とは思えなくなった。

かって一度精神科の患者だったことがある。正確な記憶は残っていないが、40代半ばのころ、不安神経症になった。きっかけは今では思い出せないくらい些細なことの積み重ねだったと思う。問題は身体症状だった。顔一面に湿疹が出て眠れなくなった。(3日間一睡もできなかったと記憶している)。心臓がワクワクして身の置き所がなかった。一度夜間救急にかかったことがある。精神科救急ではないので無理もないが、医師の対応は冷たかった。同じ医師が怪我をした子どもの手当てになると打って変わって優しいのが恨めしかった。

無理やり仕事に出ていたが、とうとう心療内科の外来でパニック発作を起こした。「とにかく眠らせて。点滴で眠らせて」と騒いだらしい。その時のいきさつや状況はほとんど思い出せない。しかし、いくつかの断片的な記憶だけが鮮明に刻まれている。外来で待っているとき「ここでパッタリ倒れたら眠らせてくれるかな」と思ったこと。「お子さんがいらしゃるのだからしっかりしなくてはね」という、点滴の準備をする看護師さんの一言に「ばかみたい、私なんかいない方がいいのに」と白けていたこと。高層ビルから飛び降りるのは簡単なことのように思えたこと。

休みをもらって家で静養することになった。わがまま放題の私に夫は耐えてくれたが、二人の子どものまなざしがつらかった。狭い我が家には閉じこもる場所もない。入院しよう(閉じ込めてもらおう)と思った。近くの精神病院に行って「とにかく入院させて」と訴えた。その時かけられた医師の一言が奇跡を起こした。

医師は言った。「どうしてもというなら入院してもいいけど、いいの?」少し間を置いて「風邪ていどで入院するの?」と言った。帰り道、もらった薬を一錠服用した私は回復していた。次の診察では医師を観察する余裕さえあった。医師はいらいらした様子で、投げ捨てるようにつぶやいた。「まったく、世間の奴らときたら何考えてるんだかさっぱりわからん、患者さんの方がよっぽどわかりやすい」。

それにしても、どうして私はいとも簡単に回復したのだろう?中井さんの本のなかに「これだ」という箇所をみつけた。中井さんはそろそろ保護室を出てもよいと思われる患者さんに何度も「いろいろあるよ。いいの?」と聞く。中井さんの「いろいろあるよ。いいの?」と「どうしてもというなら入院してもいいけど、いいの?」では相手も違えば状況も違う。それなのに、私は「これだ」と思った。たとえ勘違いでも思ったもの勝ちである。私の感想の中には他にも勘違いがあるかもしれないが、中井さんは気になさらないと思う。なにしろ中井さんは私の「バイブル」なのだから。




  2016.6.4
司書  宝番か餌番か 
ゴットフリート・ロスト/著 石丸昭二/訳 白水社 1994
Gottfried Rost: Der Bibliothekar ,1990
 司書<絵画>

ドイツのライプツィヒ社から「歴史的職業像」と銘うって刊行されたシリーズの中の一冊。著者は1931年生まれ。19歳の臨時職員から東西ドイツ統合を挟んで現在までの長い年月を図書館一筋で歩んできた司書である。「司書の仕事のデテールは世人の想像力には余るようだ」という、ややからかい気味な書き出しに惹かれて読み始めたら、これが実に楽しい本であった。

司書の仕事がわかりにくいのは万国共通らしい。薬剤師との共通点を比べるとそのわかりにくさの本質が見えるようだ。薬剤師と司書はどちらも容れ物(箱)のなかで行動する人である。容れ物とは薬局であり図書館である。容れ物の中身は薬であり本である。本は読むクスリともいうではないか。薬剤師は薬局にある薬を提供するのが仕事だ。しかし、薬剤師が薬を自分のおなかに入れていると思う世人はいない。一方、司書も本を貸し出せばいいだけなのだが、それとは別に司書は本を読む。しかし、よほどのお人よしでなければ、本を読むことを司書の仕事とは考えないだろう・・・。機知あふれる軽妙な筆致は翻訳でもよく伝わってくる。全体は3章から成っているが、図書館の歴史と司書の仕事の章はやや駆け足だ。圧巻は「宝番か餌番か」の章である。つい、引用したくなる文章がめじろ押しだ。

「司書の歴史は、もし書かれていれば、伝説にしばられ責任に苦しむ優柔不断な男から、その日その日の気分まかせの御仁まで、人類に喜びをなす芸術愛好家から形式的な手続きにこりかたまったお役人にまでおよぶ、多岐多様な行動パターンをあきらかにするだろう。」

古代から現在に至るまで雑多な群像が次々と登場する。とりわけ、ルネサンス期から19世紀後半まで、図書館が法制化される以前の司書たちの無軌道ぶりは笑える。一方で素晴らしい学者司書たちもいた。その筆頭がゲーテだ。私にとって司書ゲーテの発見が本書の最大の収穫だった。ゲーテは司書の性格についてこう述べている。
「保管することと利用することが別物であることは一般に認められ、経験によっても証明されている命題です。活動的な学者はよい司書ではなく、勤勉な画家は良い美術館監督官ではありません。」フォークト宛の書簡(1811年1月10日)

ゲーテは司書がよりよい仕事を行うために作業日誌を導入した。「なしたこと、体験したことを日々概観してこそ、自分のおこないに気づき、それを喜ぶことができるのです。そうして毎日ノートをつけていると、欠陥や誤りがおのずと明らかになります。過去にさかんに光が当てられるのは未来のためなのです。わたしたちは瞬間を、ただちに歴史的なものにすることによって学ぶのです」(ミュラー宰相との会話 1827年8月23日)

ゲーテは目録の記入法はもちろんその紙質にもこだわった。また、件名目録の考え方を強調した。図書館の環境に配慮し、利用者に対しては的を得た秩序感覚を要求した。返却にも厳しかったという。「真に偉大な精神の持ち主には、司書のデデールの意味がわかるのである」と著者は述べている。

めずらしい挿絵と欄外の名言の収集も本書の魅力だ。
「不細工な女司書はいない。美人の司書はどのみち美しい。だが一般的に見て美人でない司書は精神の魅力と品の良さを持っている フレッド・ロドリアン」女性司書に優しい名言である。

本書の最後には「もう一言」という一文がある。司書が銘記しておきたい素晴らしい内容なので、その全文を引用しておく。

「司書個々人が人類のためになすことは、ほかの人たちが各々の職業においてなすことより多くもなければ、それより少なくもない。司書という職業が歴史に書き入れる何か特別なものがあるとすれば、それは、人間として恥ずかしくない存続を確保するのに役立つ認識を手に入れるべく、人類の記憶をはぐくむ不断の努力であろう。司書は他の者たちが播いたものを刈り取り、それをよく吟味して納屋へ運び入れ、整理し、保管し、そして新たな種蒔きのためにそれを用意しておく。かれは「受ける」人であると同時に「与える」人である。彼が何を受け、何を与えるかというところにかれの能動性があり、かれがどのようにして受け、どのように与えるかというところにかれの創造性がある。かれなしには図書館は存在しないだろうし、文字文化の産物はどうの昔に消えてなくなってしまったろう。かれはいつの時代にも、過去が忘れられ、現代が静的な量としてとらえられるのを防いだ。司書は学問の良心であると同時に疾しさであり、かつまた一人の人間にほかならない。」

ちなみにこの本は「松岡正剛の千夜千冊」に収録されている。本書の書評というより松岡氏の図書館論・司書論だ。「ウェブの中には、司書は見当たらない。どこにもいない。むしろ検索エンジンやウェブユーザーやブロガーたち自身が司書であり、司書群そのものなのである。」
http://1000ya.isis.ne.jp/1214.html





2016.5.21
手塚治虫『ブラックジャック 第124話六等星』
秋田書店 1977

「私は血が嫌いで気が小さく医者には向かなかった」と手塚治虫は語っている。もちろん後世のためにはマンガ家になって幸いだったが、臨床医の手塚先生にも会ってみたいような気がする。そう思わせる話が「ブラックジャック」にはたくさんある。その一つが第124話『六等星』。私の一押しだ。この話では、ブラックジャックは語り部の役どころである。主役は大病院「真中病院」の目立たない一人の医師。言葉を連ねてもこの椎茸先生の造形において手塚の描写を越えるのはむずかしいだろう。

物語の導入が巧みだ。ブラックジャックとピノコが花火を見ての帰り道、星空を眺める場面から始まっている。ブラックジャックはピノコに語る。「一等星はあのでかい星だ、六等星はほとんど目に見えないくらいかすかな星のことだ。だがちっちゃな星に見えるけどあれは遠くにあるからだよ。じっさいは一等星よりももっと何十倍も大きな星かもしれないんだ」中島みゆきが歌った「地上の星」のメッセージに重なる。



手塚治虫のことば
君たち、漫画から漫画の勉強するのはやめなさい。一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。そして、それから自分の世界を作れ。

手塚治虫『マンガ版 罪と罰』





2016.5.15
刑務所図書館の人びと ハーバードを出て司書になった男の日記
アヴィ・スタインバーグ著 金原瑞人・野沢佳織 訳 柏書房 2011
Running the Books: The Adventures of an Accidental Prison Librarian 2010

     
 

好奇心と想像を掻き立てられる本である。ジャンルから言えば文学だろう。著者(30歳前後か)が魅力的だ。エルサレムに生まれクリーブランドとボストンで正統派ユダヤ教徒として育った。ハーバード大学を出たころからユダヤ教に背を向けるようになる。クラスメートの多くが銀行家、医者、法律家、教授、ラビになりつつあるころ、彼はボストン・グローブ紙に死亡記事を書くバイトで食いつないでいた。そんなとき偶然目にした刑務所の図書室司書の求人広告。図書室と刑務所の取り合わせの妙に惹かれて応募。正規職員となる。「ぼくにはまだ学ぶべきことがたくさんあった。ロースクールか、刑務所か。迷うまでもなかった」。兆候はあった。シェイクスピアを読んでいるのを知った祖父母が心配していたこと、ハイスクールの卒業記念アルバムにクラスメートが書いた「アヴィの将来・・・ネゲヴ砂漠で羊飼いになる」という予言。一見アメリカ的なユーモアとアイロニー、その一方で詩的・隠喩的・内観的な謎めいた本書の魅力はユダヤ世界に源泉があるのかも。しかし、そのあたりに不案内な読者−リタイアした日本の司書である私は「ネゲヴ砂漠の羊飼い」から『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、ニューヨーク育ちのホールデン少年が唯一なりたかった仕事「ライ麦畑のつかまえ役」を連想した。

さて、刑務所図書室は静かどころか、まるで禁酒法時代のもぐり酒場のような雰囲気の場所だ。30人が収容できる規模で蔵書は2万冊。司書の他に受刑者の図書係数名が交代で手伝っている。受刑者は各房ごとに決められた時間帯に利用する。制限時間は1時間だ。男女が行き会うことはない。群れをなして押し寄せる受刑者たちはやたらと騒がしい。彼らの多くは何かをさがしているらしいがそれが何なのかさえよくわかっていない。もっとも、何かをさがしているという点ではアヴィも受刑者も似たり寄ったりだ。

刑務所にとって図書室は保安上の頭痛の種だ。おおぜいの受刑者が行き来する上に書架が死角を作り監視するのがむずかしい。武器や禁制品の出所の多くは図書室からだという。たとえば、ハードカバーの本は防護服や武器になる。本に挟み込まれた紙片の回収も司書のルーティンだ。紙片の多くは受刑者が書いたメモや手紙で、カイト(凧)と呼ばれている。長いのや短いの、宛名のあるものないもの、サイズもさまざま。大判の本が郵便箱に使われる。「カイトは図書室の読み物の中でも最高の部類に属する」とアヴィは言う。届くことのないカイトの運命がアヴィを捉えてこの本を書かせたのかもしれない。

本と向き合う時のプライバシーは受刑者に与えられた最高の自由だ。しかし、本は善き道への導きにもなるが悪しき道に進む方法を知る手段にもなる。両者をみわける方法はない。「面倒に巻き込まれないようにすること」賢明な刑務官や職員たちはアヴィにそう助言した。この本のアヴィは心優しい有能な司書だ。受刑者たちは彼をブッキーと呼んで愛した。しかし刑務所という場所ではアヴィは面倒に巻き込まれやすい人物という評価になる。実際、そうなって停職処分を受ける。

「刑務所図書館の人びと」の中でもっとも印象に残るのがジェシカだ。18歳のとき2歳の息子を教会に捨てた。その息子が18歳になり同じ刑務所に入ってくる。中庭でバスケットボールをする息子の姿を高層棟から食い入るようにみつめるジェシカ。出所が近づき息子に手紙と似顔絵を渡したいとアヴィに打ち明ける。精一杯のおしゃれをして図書室の奥で同じ房の友だちに似顔絵を描いてもらう。アヴィはこの規則違反の計画に熱中する。だが、映画のような展開にはならない。ジェシカは何も告げずに姿を消した。手紙と似顔絵は房のゴミ箱に破り捨てられていた。出所後まもなくジェシカは薬物大量摂取で死ぬ。手紙も似顔絵も息子に届かなかった。アヴィは時を同じくして死んだ祖母にジェシカを重ねる。アウシュビッツの時代を語ることを拒み続けて死んだ祖母。だが、親戚が集めた記録の中に祖母は声を残していた。息子に何も残さなかったジェシカは同じ房のヴェトナム女性にリボンのプレゼントをしていた。届かない手紙に対するアヴィの思いは深く遠く時代を超えて拡散する。

受刑者の図書係のエリアも忘れがたい。彼は図書室の騒ぎをよそに書架の奥でいつも静かに本を並べていた。そのしぐさは丁寧で愛がこもっており上品だった。これまで何百時間も果てしなく黙々と繰り返しているこの作業。この行為こそがエリアがよく使ったdoing time(刑期をつとめる)ということだった。エリアは身をもって刑務所図書室のあり方について教えていた。「秩序というものは大掛かりな計画によってではなく、ささやかな行為をていねいに何度も繰り返し、みがきあげていくことで形成されるのだ」題名の“Running the Books” と“doing time”は対になっている。

この本が映画化されればいいと思う。スカイライティングはもっとも美しい場面になるだろう。静まり返った刑務所の夜の闇の中で受刑者たちの沈黙の会話が交わされる。中庭は暗く房は明るい。男性受刑者たちは中庭をはさんだ高層棟にいる女性受刑者に向けて空に指で文字を書いて合図をするのだ。一方で同じ中庭でロマンティックとは対極の奇異な場面が演じられることもある。保護拘置ユニットの囚人たちによる真夜中の バスケットボール。刑務所版奇人変人ショー。スカイライティングの窓はたちまち受刑者専用の観客席にとって変わる。

以下は司書仲間に向けた個人的な感想である。

アヴィの刑務所図書室と私が7年間司書をしていたがん専門病院の患者図書室。両者には似たところがある。まず、刑務所と病院はどちらも自由を奪われた人びとが一定期間過ごす場所である。刑務官・職員・受刑者の関係と医療者・職員・患者の関係には類似点がある。いずれの場合でも3者は外見からもはっきりと見分けられる。その中で司書という職種はどこかあいまいだ。図書室に対する見解もあいまいだ。利用者からは「刑務所らしくない」また「病院らしくない」唯一の場所として歓迎されている。しかし、管理者にとっては無くても困らない、むしろ無くして節約を図りたい場所かもしれない。また、把握できにくい場所で交わされる人と本、人と人との交流や影響が気になることがあるかもしれない。

「刑務所図書室の役割って何?」アヴィはいろいろな人にこの疑問を投げかけた。その答の中には患者図書室にもあてはまるものが多い。

刑務所:図書室は百害あって一利なし。受刑者に犯罪を企てる場を提供するだけである。
病 院:患者に医学専門情報を提供しても理解できないだろう。混乱をまねき、かえって患者を苦しめるだけだ。(医師)

刑務所:受刑者の現実を忘れさせ神経を落ち着かせるために有効。刑務所がいくらか暮らしやすい場所になる。
病 院:「患者図書室は病院中のオアシスの役目を担っているようです。気持ちが暗くなりがちな入院生活の中でいろんな世界を教えてくれる本に出会うことができたら、もっと楽しくなれるでしょう。」(患者)

刑務所:見張られているとは思っていない受刑者から情報を引き出すのに格好の場所である。
病 院:ここ(患者図書室)では患者さんは本音で話している。(医療者)

刑務所:受刑者たちは法律関係の書物を閲覧する権利がある。
病 院:患者も医学専門情報にアクセスできるようにすべきである。(司書)

刑務所:受刑者が人生を変えたり、教養を深めたり、何か生産的なことができるようになるための場所である。
病 院:「退院まじかになって本に関する話ができて幸せだった。もっといたいような気がする。病院にいてもっといたいというのは妙なものだが、癒されるし落ち着く。生命がもっとあれば万巻の書が読みたい。」(患者)

刑務所:刑務所の図書室は99.9パーセントの受刑者にとっては無用の長物だが、マルコムXのような人間を再び輩出する可能性があるというだけで存在価値がある。
病 院:ある男性患者さんは患者図書室に通って「検査略語表」を作成した。

刑務所:受刑者は時間をもてあましている。本を読むのはいい暇つぶしになる。
病 院:「気晴らしになる本はありませんか」という患者さんは多い。

刑務所:シルヴィア・プラスの本は人気があったが、自殺を誘発させないかと不安だった。(アヴィ)
病 院:闘病記は総じて人気があるが、最後が死で終わるからと避ける人もいた。



アヴィが創作クラスで教えるとき教材に使ったイスラエルの詩人の詩

爆弾の直径
イェフダ・アミハイ

その爆弾の直径は三十センチ
有効範囲の直径は約七メートル
四人が死に、十一人が負傷した
痛みと時間の輪は
さらにその外側へと広がり
病院ふたつと墓地ひとつにおよんだ
しかし、爆弾で死んだ若い女性が
百キロ以上も離れた故郷の街に葬り去られたので
痛みの輪はさらに広がった
彼女の死を嘆き悲しむ孤独な男性は
遠い国の片隅にいたので
悲しみの輪は世界にまで広がった
さらに、泣きじゃくる孤児たちについては
何もいうまい
だがそのために
悲しみは神の御座にまでおよび
さらにその先へ、輪は際限もなく
神もなく、どこまでも広がっていくのだ

愛と勇気の刑務所図書館物語「ショーシャンクの空に」