ある医学図書館員の軌跡
2016年1月13日


医学図書館・病院図書室を愛した医師たち

下原 康子


医学図書館司書として39年間、数多くの利用者の方々(学生、医師、看護師、コメディカル、患者、家族)と出合った。また身近に接することはなかったが本・論文・講演・手紙・メーリングリストにおける出会いもあった。今ではなつかしいそれらの方々によって私の平坦な日常業務にときめきと活気がもたらされた。啓発されることも多かった。その中から5人の医師の思い出を感謝をこめて書き留めておきたい。


海老沢功 医師

東邦大学医学部図書館でカウンター係をしていた1984〜1900年ごろ、海老沢功先生をよくお見かけした。物静かで凜とした小柄な白衣姿を思い出す。当時、東邦大学医学部公衆衛生学教授をなさっていた。感染症、熱帯病、とりわけマラリアと破傷風がご専門だった。ふと閲覧室に目をやると静かに洋雑誌を読まれる先生の姿があった。そして気づかないうちに帰られているといったふうで、言葉を交わすことはあまりなかったが、いくつかのエピソードが記憶に残っている。

破傷風と指貫

ある日のこと、海老沢先生がめずらしくカウンターに来られたことがある。手にした雑誌を開いて示された。カラーページいっぱいに世界各国の指貫の写真が載っていた。その美しい指貫の数々は海老沢先生のコレクションなのであった。収集のきっかけのヒントが日本獣医学会雑誌に書かれた文章の中にある。

海老沢功 破傷風ワクチンを開発した獣医師G・ラモン


ワクチン開発の難題は腐敗防止だった。ラモン医師は学生時代に恩師が牛乳の腐敗防止に指貫一杯のホルマリンを使ったことを思い出した。それが解決の決め手になった。指貫は破傷風ワクチン誕生の記念品だったのだ。

200号記念インタビュー

1988年3月、海老沢先生は東邦大学を定年退職された。翌年の1989年、東邦大学医学部図書館「図書館ニュース」200号記念特集<古い図書館を知る人へのインタビュー>の企画があった。確か私が記事にしたと思う。海老沢先生はインタビューに次のように答えておられた。

「私たちは毎日食事をしないと生きていけない。それと同じように医学を学ぶ者としては少なくても毎週一回くらいは図書館に来て新着雑誌に目を通さないと時代遅れになりそうで、何となくひもじい思いがします。定年後もこの思いはあと10年くらいは持ち続けたいと思います。図書館にだけは自由に入らせてもらいたいと思います」

佐倉図書室で再会

1991年に開設した佐倉病院の図書室に異動してようやく軌道に乗ってきた1998年、海老沢先生と再会した。当時発行した「佐倉図書室通信68号」の紙面での再会だった。「マダガスカルに行ってきました」という臨床心理士さんのエッセイの中に海老沢先生の名前があった。マダカスカルに出発する直前にマラリア予防薬について薬局に相談したら海老沢先生を紹介されたという。突然の電話にもかかわらず投薬の方法や旅行中の注意などを丁寧に教えてくださったそうだ。この通信を海老沢先生にお送りした。折り返しお手紙と3冊の本が送られてきた。手紙には次のようにあった。

「小生相変わらず火曜日または木曜日のどちらかに東邦大学の図書館に行き、熱帯病、感染症および旅行医学に関係した論文を読んでいます。よくよく考えてみましたら、今年で東邦大学を定年退職してから10年目になります。図書館は静かで職員は親切、冬は暖房、夏は冷房が適当にきいており、まさに天国のようなところです。小生の指貫の収集は前ほど積極的ではありませんが、外国に行くたびに1〜2個は集めてきますので、既に100個以上になっていると思います」

寄贈していただいたのは以下の3冊だった。

@海老沢功『破傷風』(日本医事新報社 2005)指貫と破傷風の由来が書かれている。

Aシュヴァイツェル『水と原生林のはざまで』(岩波文庫)手紙に「小生が旧制高等学校時代に読んで感銘し、大学へ入っても何回か読み、卒業後、伝染病や熱帯病を専門に勉強するきっかけになった本です」とあった。先生ご自身も、シュヴァイツァーの伝記を書かれている。
海老沢功『素顔のシュヴァイツァー ノーベル平和賞の舞台裏』近代文芸社 2000 

B有吉佐和子『女二人のニューギニア』(朝日文庫)海老沢先生が登場する。文中のマラリアの描写は「これだけ書ければ医学生として合格」とのことだ。




村上宏 医師

「和雑誌特集記事索引」

1974年、最初に配属された東邦大学大橋病院図書室にいたころ、村上宏先生(神戸大学衛生学教授)が講演録かなにかに「和雑誌の特集の索引があればよい」と書かれていた。目が開かれる思いがした。ちょうどそのころ順天堂大学からだったと思うが、本館に冊子体の「和雑誌特集記事索引」が送られてきた。さっそく真似をしてカード式の和雑誌特集記事索引をスタートさせた。本館で冊子体を作ったとき村上先生にお送りした。このあたりの記憶はあいまいになっているが、和雑誌特集が村上先生との交流のきっかけだったことは間違いない。

1977年に医学部図書館に異動になり和雑誌特集の担当になった。当時は当然のことながらカード検索だったから特集に付与する件名の選択に苦労したものだ。1980年後半に東京大学と北里大学がインターネットで「和雑誌特集記事索引データベース 」を公開した。東京大学の公開は現在も続いており、むしろ患者や家族など一般市民にとって有効な情報になっている。

突然の来訪

1978〜1980年頃だったか、村上先生が突然東邦大学医学部図書館に訪ねてこられた。当時、村上先生は神戸大学医学部衛生学教授の職にありながら「医学図書館」に3つの論文を発表されていた。

●村上宏:医学図書館の窮状打開を考える 医学図書館 21(3・4):55-160(1974)
●村上宏:雑誌の選択とCore Journals 医学図書館 24(3):105-110(1977)

村上宏:MEDLARSに関するいくつかの問題医学図書館25(4):217-224(1978)


現在、3論文ともオープンアクセスで公開している。このたび読み返してみて、時代を超えた普遍性・予見性が際立つようで読み応えがあった。1977年の時点で「近い将来、論文の編集者はその内容を審査するのみで雑誌は発行せず、利用者は審査に合格した論文の存在を索引誌かせいぜい抄録誌で知り、原稿のコピーを入手するという情報の流通様式が一般化することは確実である」と予測されている。

学術論文にしてはめずらしく文章に独自のスタイルとユーモアがあった。当時の私は内容はわからずともそこに惹きつけられたのだろう。お会いした村上先生はスラリとした長身の気品ただよう紳士だった。私はそわそわと上の空で何を話したか憶えていない。ただ、先生が書架で製本された製薬会社の雑誌をみつけて「さすが私大は裕福ですね」と言われた時に恥ずかしい思いがしたこと、Medline検索よりCurrent Contentsを好まれていたことを憶えているばかりである。

『医師の見た六甲全山縦走』

1975年から六甲全縦市民の会と神戸市が毎年共催していた六甲全山縦走大会に村上先生は初回から、参加者としてまた支援者として関わり見守り続けてこられた。(大会は2015年の開催をもって終了した) 。村上先生はこの大会の記録を参加者と共有し、また集まった医学的データを山岳歩行の事故防止に役立てることを希って『医師の見た六甲全山縦走』(六甲全縦市民の会 1982)という新書版の本にまとめられた。

この小さな本は山岳歩行のバイブルの趣がある。データ収集のための検査やアンケートの工夫がユニークでおもしろい。たとえば疲労の自覚調査。たくさんの項目を並べたりしたらそっぽを向かれてしまう。そこで村上先生が考案したのは「再全縦の予想到達地点」を聞くという方法だった。つまり今すぐに再び歩くとしたらどこまで歩けるか、その地点に○印をつけてもらうという簡単な方法である。先生は後に産業医として働かれたが、数字と統計を駆使する科学者であると同時にユーモアあふれるヒューマンな臨床医でもあった。

『大震災・母と子』

震災から3年経った1997年暮れ、村上先生から新書版の本が送られてきた。『大震災・母と子 阪神・淡路大震災を体験した妊産婦373人の発言』(兵庫県産科婦人科学会・兵庫県医師会発行 1998)である。この本は1995年の震災に関連した膨大な産科学的調査報告(「阪神・淡路大震災が妊産婦、胎児および産科医療に及ぼした影響に関する疫学的調査」神戸大学リポジトリに収録)を元に村上先生が妊産婦の生の声を紡いで一般向けにまとめられたものだ。どこにも村上宏の名前はないが、妊産婦の手記以外は序文から編集後記まで村上先生の文章である。

あえて一般向けに書き変えて出版されたのは村上先生ならではのことだったと思う。編集後記に「全国の公共図書館における震災関連の図書の所蔵には大きなばらつきがあるが、今後起こりうる災害のために全国の主な公立図書館に献本するとともに、医療・保健関係の図書館にも寄贈することにした」とある。東邦大学医学メディアセンターの所蔵を調べたらちゃんと入っていた。




牧野永城 医師


草の根のもつ力

牧野先生と私の唯一の接点は、ほすぴたるらいぶらりあんVol.24 No.1(1999.3)である。この号の編集担当になったとき、真っ先に牧野先生に巻頭言を書いていただきたいと思った。1998年5月、亀田クリニックで開催された病院図書室研究会(現・日本病院ライブラリー協会)の研修会で牧野先生の「病院図書室機能評価」の講演を聞いていたからである。当時、亀田総合病院・診療統括副部長をなさっていた。巻頭言「草の根の持つ力」は病院図書室司書への心のこもったエールだった。

「民間から生まれるいわゆる<草の根運動>は欧米には多い。しかし、日本ではなかなかこの種の運動は育たなかった。とかく無視されがちな職場の人たちが、しかも若い女性の多い条件の中で、お互いに結び合おうというのだから、そしてその職域の利益のためではなく、病院図書室の質をあげたい、みんなで勉強したい、そのための横のつながりで互いに助け合いたいという純粋な動機に立つものだったから、私には非常に新鮮に映って目をみはったのであった。それからこれだけの年月が経ち、この会はすっかり根を張っている」

病院図書室機能評価

「病院図書室機能評価」を考える上で見逃せない資料二つがある。

@牧野永城:良い病院には良い図書室が 臨床外科 49(2):1460-1461(1994)
良い病院には良い図書室が (臨床外科 49巻12号) | 医書.jp (isho.jp)

日本医療機能評価機構が発足する前から牧野先生は「医療の質に関する研究会」のメンバーとして全国各地の病院を訪問して評価項目について調査してこられた。その中で不採算部門の貧弱さを指摘されている。図書室もその一つで、欧米先進国の図書室と比べるとその落差になんとも言い様のない寂しさを感ずる、と述べられ、いくつかの図書室から学んだことを中心に良い図書室について、環境、職員、資料、相互貸借、文献検索、図書委員会、予算などについて提言をされている。最後に「良い図書室を持つ病院には悪い病院はない」と結ばれている。(この記事は残念ながら医中誌Webに収録されていない)

A牧野永城:病院図書室の役割 これまでとこれから 日本病院会雑誌 44(5): 782-790(1997)

1996年8月10日に横浜で開催された全国図書室研究会の特別講演である。(「日本病院会雑誌」はオープンアクセスになっている)。牧野先生のお人柄がうかがえる楽しい講演だ。先生は医師になったときからずっと図書館・図書室に親しんでこられた。熱心なアドバイザーでもあった。ご出身の東北大学には図書館の充実に熱意のある医師がおられて、Journal of Experimental Medicine を交換雑誌として世界中に送られていたという。

留学先のアメリカではアクセスがよく真夜中でも電気がついて人がいてコーヒーが飲める図書室がお気に入りだった。聖路加病院ではずっと図書委員を勤められた。渡米するたびに図書館見学をされた。NIHの図書館で初めてオンライン検索を体験し帰国して大学に先駆けてJOISを導入されたという。

1993年亀田総合病院で日本初の職種であるMedical Director(診療管理責任者)に就任されている。1995年日本医療機能評価機構が発足し、手をあげた病院の審査が開始された。この時点で先生は全国の36の病院図書室をごらんになっている。講演の中では図書室を審査する際の評価のポイントが項目にそって具体的に述べられている。

この講演から20年経った今、医学情報流通を取り巻く環境は激変した。先生は「利用者にどういうサービスができるか、それがもっとも大切なポイントです」と言われた。
病院図書室の現状を見るとインターネットにのみ込まれかねないような心細さが感じられる。これからは医療者や患者・家族に必要とされる病院図書室の新たな役割・サービスを見出す努力がますます必要とされていくだろう。





冨岡玖夫 医師

メディカルディレクターの眼

1991年に開設された佐倉病院の図書室に異動したときから2006年に退職するまで冨岡先生には身近でご指導いただいた。当時、佐倉病院内科教授で副院長をされていた。アレルギー、特に喘息がご専門だった。教授室と図書室が近く、白髪・長身のおだやかな姿をよくお見かけした。お話をうかがう機会はいつもうれしかった。言葉の端々から医療改革・診療の質の向上への意欲が伝わった。冨岡先生も牧野先生のようにメディカルディレクター的視点で図書室のことを教育・診療支援に留まらず、診療録管理と肩をならべて病院の情報を担う部門と考えておられたと思う。病院の中で分室はやや心細い存在だっただけに冨岡先生の応援は心強かった。

『免疫の意味論』(青土社 1993)

佐倉図書室通信No.40(1995.9)で本書を紹介していただいた。

多田富雄『免疫の意味論』

多田先生は冨岡先生の恩師で出身も同じ千葉大学である。『免疫の意味論』は大佛次郎賞で話題になっていたが、私にとって免疫学は医学の中でも一番わかりにくい分野だったため敬遠していた。ところが、読んでみると最初から最後までワクワクさせられ通しだった。この本のおかげで医学分野の読み物に対する免疫ができたのか、その後は興味深く読めるようになった。冨岡先生の書評がなければ通り過ぎてしまっただろう。


「MeSH用語の変遷」の調査

冨岡先生は司書の仕事を評価してくださっていたが、それだけに難しい要求もされた。その一つがアレルギー・免疫の分野で採用されているMeSH用語の変遷を調べて欲しいというものだった。今ならインターネットで調査できるかもしれないが(未確認)当時としては、分厚い冊子体のMeSH(Medical Subject Headings)とCIM(Cumulated Index Medicus)で調べる方法しか思いつかなかった。佐倉図書室にはMeSHの最新版しかなかったので本館に依頼した。手間と時間のかかる調査だった。結果は冨岡先生が書かれた論文に表となって載った。(その雑誌は廃刊となっており論文の特定はできなかった。論文ではなく随想だったかもしれない)表の下には私の名前があった。調査したのは本館スタッフです、と説明したものの、気恥ずかしい思いだった。とはいえ、冨岡先生が司書への応援を示してくださったことがなんとも嬉しかった。

「日本アレルギー学会」に参加

1997年5月、幕張の会場で「第9回日本アレルギー学会春季臨床大会」が開催された。冨岡先生が会長をされた。先生のお招きで当時親しくしていた臨床検査技師さんといっしょに参加した。「佐倉図書室通信No.59/1997.5」に参加記を書いている。

「5月1〜3日に幕張で開催された学会に参加させていただきました。ユング学者で有名な河合隼雄氏の特別講演「心の処方箋」と冨岡先生の会長講演「アレルギー学の展望」を拝聴しました。私には二つの講演がまるで呼応しあっているように感じられ印象的でした。シンポジウム「アレルギー治療薬開発は誰が担うか」「アレルギー科標榜とアレルギー学会の将来」もそれぞれ異なる立場からの本音がうかがえてとても興味深く刺激的でした。医学の学会に参加したのは初めてで緊張しましたが、オープンで親しみやすい雰囲気で思いのほか楽しめました。医学・医療の諸問題に関心を持つことは医学図書館員としての栄養になると考えています。このような機会をいただいたことに感謝いたします。」

日本インターネット医療協議会(JIMA)

JIMAの設立は1998年だが、早い時期に冨岡先生に薦められて入会した。私は職業柄パソコンやインターネットを使ってはいたが、本来は本の虫でアナログ専門だったから、冨岡先生に誘われなかったらJIMAとの縁はなかったと思う。ところが、入ってみると苦手な話題が多いにも関わらず、どこか居心地のよい会なのだった。やがて、インターネットを通して医学図書館員が社会に役立つ存在であることをアピールしたいというだいそれた思いを抱くようにもなっていた。一方で、JIMAは医学図書館員の間では早くから知られており「インターネット上の医療情報の利用の手引き」はよくリンクされている。

JIMAで冨岡先生とお会いしたのは3〜4回かと思う。最後は2009年6月の会員フォーラムの会場だった。その日は当時私が勤務していた千葉県がんセンターの病院長だった中川原章先生が講演をなさった。冨岡先生と中川原先生があいさつを交わされる姿を記憶している。振り返ってみると冨岡先生は私に医学・医療の新たな世界を開くきっかけをさまざま与えてくださった。感謝の他はない。




亀田典章 医師

長いお得意様

亀田先生は医学部図書館から佐倉病院図書室を通して、私が接したもっとも長い間のお得意様であった。当時、病理学助教授(後に教授)で、骨軟部腫瘍の研究をされていた。強靭な体格はラグビー仕込みと聞いた。会話の機会は少なかったが、私と近い出身地のイントネーションに親しさを感じていた。コンスタントに文献を申し込まれていた。流れるような美しい筆跡で書かれた文献申込書が今でも目に浮かぶ。論題の最後まで丁寧に書かれるので、「途中まででかまいません」と申し上げたような気がする。

医学部図書館の頃はしばしば文献検索のお申し込みを受けた。JOISという有料サービスを使って代行検索をするのだが、接続時間と出力件数で課金が増える上に途中で回線が途切れるトラブルも多かった。そうやって出力してもその中で文献申し込みを受けるのは数件にすぎなかった。現在のインターネット検索からは隔世の感がある。ストレスフルなので積極的になれなかったものだが、今思い返すとこの時ほどMeSHを活用したことはない。

乳がん患者になったとき

1995年は1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件があって日本の安全神話崩壊の年として記憶されることになったが、その年の6月、麻原が逮捕されたその日に私は乳がんの告知を受けた。49歳だった。佐倉病院に入院した。もちろん医学情報を探すことはできたがその時は知りたくなかった。情報というのは生モノで旬の時期は人それぞれで違う。大切な情報であっても知りたくなければ役に立たないのである。後に患者図書室で患者さんに接しながらしばしば当時の心境を思い出した。

がんは早期だったので部分切除した。しかし切除部分にがん病変が散らばっていた。主治医に呼ばれた。てっきり退院と思っていたのに再手術を告げられた。その場に亀田先生もおられた。「なぜ!どうして?」という状態の私に亀田先生は「何でも聞いてください」と言ってスライドや資料を示しながら説明された。他施設医師への相談の返信まで見せられた。確かにつらい場面ではあった。しかし、思い出すのは、つらさよりも主治医と亀田先生の思いやりに対する感謝の気持である。

『患者よ、がんと闘うな』

乳がんを体験した翌年の1996年、亀田先生は「佐倉図書室通信」の<私の一冊>に当時、話題の本の感想を寄せてくださった。

近藤誠『患者よ、がんと闘うな』(文藝春秋 1996)

がん患者にとって病理結果は運命の宣告に等しい。その判決を下す病理医が、この刺激的なタイトルの本をどう読まれたのだろうと思うとドキドキした。しかし、意外なほど真っ直ぐで真摯な感想だった。その感銘は忘れられない。先生は書かれていた。

「私自身、診断病理学に従事している関係で患者さんとの接触はほとんどない。(中略)提出された検体あるいは解剖にふされた遺体を通してどういう治療が行われたかは分かるが、その裏で医師、患者ともに様々な錯覚、誤解、無見識などから、無意味で誤った治療が選択されていたことには気づいていなかった。現在のがん治療の多くが<延命>とは逆の<短命治療>になっていることも知らなかった」

示唆に富む解剖について述べられている。

「74歳の男性で4年前に多発性肝がんが発見された。患者・家族・主治医の相談で無治療・経過観察となった。本人は亡くなる2ヶ月前までゴルフを楽しまれた。解剖した時点で肝臓の80%以上ががん組織に置換され全臓器に転移していた」

20年経った今でも「がんと闘うな」の論争は続いている。がんセンターの患者図書室で働いていたとき「こういう本を置いてもいいの?」と聞く患者さんがおられる一方で「近藤誠は今でも正しい」と言う元キャリアナースの患者さんもおられた。多くの患者さんは抗がん剤治療を受けながら近藤医師の本を読まれていた。近藤医師の功績は、がんやがん治療を考える上での相対的な見方・考え方を提供したことにある、そう理解している。亀田先生は2016年現在、病理診断の仕事を続けられている。





内田康美医師

豪華客船で旅をするより、いいでしょう?

内田康美先生は、東京大学をご退職後、平成3〜8(1991〜1996)、佐倉院臨床生理機能検査部部長であられた。図書室を利用なさったのは一度きりだったが、そのときの忘れがたいエピソードを書き留めておきたい。

図書室に来られた先生からPubMed検索を依頼された。いくつかのキーワードを示された。特定の論文を探すのではなく、検索結果の一つ一つを確認されている様子だった。傍で見ていた私に、先生はふと話しかけられた。

「お金をあげたいと思ってね。人探しをしているのですよ」
「え?」
「一人につき500万円」
「え?」
「研究のための賭けですよ。成功したらめっけものでしょ」
「え!先生ってすごいお金持ちなのですか?」
「豪華客船で旅をするより、楽しみでしょ?」

後に以下の情報を知りました。

内田賞の主旨について(2022年3月28日更新)

「日本における循環器病の発展に寄与するため、埋もれた若手研究者を育成する」という、本学会名誉理事長内田康美先生の目的で日本心血管内視鏡学会は、内田賞を設けました。当学会会員外への門戸を開いて募集します。基礎医学の方も対象です。本来、平成22年から10回で終了予定でしたが、内田名誉理事長のご厚意によりさらに5年延長となりました。