ある医学図書館員の軌跡
初出:地域医療ジャーナル 2023年1月号〜3月



「医学中央雑誌」の父  尼子四郎


下原康子


第1回 人と生涯
第2回 尼子四郎と「医学中央雑誌」
第3回 尼子四郎と夏目漱石


はじめに

言うまでもなく「医中誌Web」は、日本国内の医学関連分野の文献情報を収集した唯一無二のオンラインデータベースです。その歴史は、明治36(1903)年、市井の開業医であった尼子四郎によって創刊された「医学中央雑誌(後の医中誌Web)」に遡ります。現存するものでは、1879年刊行の「Index Medicus(後のPubMed)」に続き、世界で2番目に古い医学文献二次資料とされています。1997年6月、PubMedのインターネット無料公開が実現します。2000年4月には、「医中誌Web」及び「医中誌パーソナルWeb」の有料Webサービスが始まりました。

本題に入る前に、「医中誌Web」が、私にとって、いかに身近で頼もしい存在であったかをお伝えしたいと思います。

「医中誌Web」が、医学・医療関係者にとって、最強のツールの一つであることは言うまでもありません。また、私に限っていえば、医学図書館員という仕事を離れて、個人的にも「医中誌Web」を利用した経験が少なからずあります。それは次のような局面においてでした。

自分や家族や友人の病気について調べるために

●私の視点 医学文献の無料公開を 
●急性肝炎になって 
●文献検索と出会いの数々 国内医学文献情報データベースの無料公開を願って


関心のある事件についてより詳しく知るために

●大学図書館の一般公開を望む  薬害エイズの教訓
●『安全という幻想 エイズ騒動から学ぶ』を読んで 医学図書館員が読む薬害エイズ


新聞やメディアの報道に接し、エビデンスの観点から情報の典拠を確認するために

「iPS心筋移植の大誤報」の記憶が鮮明です。

2012年10月、山中信弥先生のノーベル医学・生理学賞受賞に日本中が喜びに沸いていた矢先、「一人の日本人が、アメリカでiPS細胞から作った心筋細胞を移植し心不全を治療した」という記事が大新聞の一面に踊りました。ところが、数日を待たずして誤報の「おわび」が掲載され、この事件はあっさりと幕引きになりました。

iPS心筋移植」は捏造だったのか?なぜこんなに大きく報道されたのか?

さっそく、医中誌Webで「“該当人物名”AND“iPS細胞”」で検索してみました。ヒットした3件はいずれも解説記事で、ここからは、報道されたような快挙はとても想像できませんでした。「なぜこんなに大きく報道されたか」についてのメディアの検証は、私の知る限り充分ではないと思われます。

それにつけても、新聞記事には情報の典拠または確認のための手がかりを明記して欲しいと望みます。




第1回 尼子四郎 人と生涯 
<慶應元年(1865) - 昭和5年(1930)7月7日>


引用文献

@富士川游 故壽山尼子四郎君 [故尼子四郎氏追悼号] 
藝備醫事 410号 P279-287 昭和5(1930)年
A永井潜 畏友尼子四郎君を憶う [故尼子四郎氏追悼号] 
藝備醫事 410号 P290-291 昭和5(1930)年
B尼子壽山 名家の醫家文學者観 
醫文學 第1巻1号 P41 1925
C廣島縣醫人傳 第1集 
P40-41 1986
D斎藤晴恵 尼子四郎と夏目漱石 医学図書館 53(1):60-64 2006

文献の多くは、医学中央雑誌刊行会の松田真美さんから提供していただきました。感謝申し上げます。

関連する人物

尼子四郎(1865-1930) 広島県生。地方医、保険医を経て、1896年、芸備医学会(後の広島医学会)を創立。1903年、東京千駄木に医院を開業。同年3月「医学中央雑誌」を創刊。
尼子富士郎(1893-1972) 尼子の長男。老年医学の研究と教育の先駆者。「医学中央雑誌」を引き継ぐ。
富士川游(1865-1940) 広島県出身。広島医学校(現広島大学医学部)の尼子の同級生。「日本医史学」という前人未踏の分野に挑んだ。
呉秀三(1865-1932) 広島県出身。日本における近代的な精神病学の創立者。富士川游と共著で『日本醫籍考』(1893)を刊行。
永井潜( 1876-1957) 広島県出身。医学者、生理学者、優生学者。終戦直後に外務次官を務めた。
夏目漱石(1867-1916)尼子四郎は漱石一家の家庭医であった。『吾輩は猫である』は千駄木で書かれた。
 

尼子四郎は、昭和4(1929)年冬、胃癌の手術を受け、一時回復しましたが、翌年春に再発し、昭和5(1930)年7月7日午前3時30分、帰らぬ人になりました。享年65歳。弔問の客は1000余名にのぼりました。余命の長くないことをさとった尼子は、自叙伝を原稿用紙150枚にまとめ、子息に遺しましたが、残念なことに昭和20年の東京大空襲により、家財とともに消失しました。そのため、引用文献@の富士川游の追悼文がもっともまとまった伝記ということになります。


1.尼子四郎の生涯

富士川游の追悼文からの要約
富士川游 故壽山尼子四郎君 [故尼子四郎氏追悼号] 藝備醫事 410号 P279-287 昭和5(1930)年

尼子四郎は慶応元年(1865)年、広島県の山間、安芸国山県郡戸河内村本郷(現在の広島県安芸太田町)で生まれました。家は代々庄屋でしたが明治維新後没落し、母は四郎出産のとき産褥で亡くなりました。兄と姉がいましたが、兄は夭折し、姉は母の生家の養女になります。四郎は叔母(父の妹)の嫁ぎ先で育てられました。12,3歳ころ広島に出て、小学教育、漢学、英語を学びます。16,7歳のころは、政治家か政治記者志望でしたが、恩師の命により、医師になるため岡山医学校の入学試験を受けて合格します。ところが、叔母の家の財政が傾き、学資の融通がつかなくなったため、明治16(1883)年やむなく広島に戻ります。

ちょうどその頃、京都で勉学していた富士川游も母の急死で帰省を余儀なくされていました。明治16年(1883)年、尼子四郎と富士川游は出会います。二人は、当時、県費による医学生養成の制度があった広島医学校に入学したのでした。富士川は、医学校時代の尼子四郎を次のように回想しています。

君は資性顕敏でありましたが、その上に学生時代には人一倍の勉強家でありました。寝ながらにして書物を読むという態度でありました。元気な君は、煙草を呑む、酒もやる、囲碁も将棋も何でもござれという風な溌剌たる学生として腕白党の一人でありました。それに君は議論が好きで、流石は政治家たらむと志した青年であると思われました。

明治20(1887)年7月、尼子四郎は広島医学校を卒業します。卒業試験はすべて甲で首席を占めました。当時の事情により、奉職または開業を勧められましたが、上京することに決め、明治21(1888)年3月、東京帝国大学選科に入学し、青山内科に入ります。同郷の呉秀三も当時の学生でした。ところが、1年半すぎたころ、腸チフスにかかって中退を余儀なくされます。

島根県益田の従兄のもとで明治24(1891)年春まで、静養しながら医院の仕事を手伝います。この地で結婚。その後、山口県下松に移り開業します。医院は盛況で、長男富士郎が生まれ、安定した幸せが訪れました。ところが、明治27(1894)年春、その5年前に放置した古傷が原因で腰椎カリエスを発症し、再び休養の止む無きに至ります。

「人生の行路難に加ふるに、又この海上の行路難に遭う、これを以て前途を推せば尚ほ幾多の難関に遭遇するやも知れない。しかし浮屠(仏)の言ふ如く、人間の世界は苦の世界である。苦を恐れてはこの世界に居ることは出来ない。この世界に居る以上は覚悟の前である。来たれよ、来たれ、我飽まで汝と闘はむ。」(尼子記)

その後、病状がいくらか回復した尼子は、広島に出て軍医に志願します。しかし、病身のため採用されませんでした。それでも、東京に出て斡旋を乞いましたが、この時も謝絶されます。進退窮まった尼子は富士川を訪ねます。富士川の紹介で、内國生命保険会社の保険医の職を得ます。健康状態も次第に改善し、才能を知られて重く用いられるようになりました。明治29(1896)年春、内國生命保険会社の仕事の傍ら、富士川游、三宅良一の3人で、芸備医学会(後の広島医学会)を創立します。尼子は、広島県の公費で医師になった恩義に酬わねばならないという思いから、医業の外でも、機会があるごとに広島県の公共や公益事業のために尽力しました。

明治35(1902)年、尼子は内國生命保険会社を辞して、東京千駄木に医院を開業します。医院は早々から盛況で、わずか2,3年の間に東京市内の有数の医師に数えられるまでになりました。また、呉秀三博士の推薦で東京府巣鴨病院の医員となって、精神病学の実際を研究し、日露戦争の折には東京の陸軍予備病院の医務に従事し、その間、男子「ヒステリー」について研究しました。

明治36(1903)年、尼子四郎は医学中央雑誌を刊行します。始めは編集のみでしたが、後には経営にもあたり、終生その労を厭うことはありませんでした。


2.尼子四郎の歌

富士川游は、追悼文の最後に、幻となった自叙伝の中から、尼子四郎の深い内省やアイロニー精神を感じさせる短歌、狂歌を掲げています。

うきことの尚ほこの上に積もれかし限ある身の力ためさむ

天稟の義務をもてりと信ぜしが製糞の外無為にすごして

あざやかな忘と不忘の使ひわけ身勝手思う人のわざかな

世は濁り人みな酔へり我れ獨り醒めりと見しは酔夢なりけり

つまはじき免れしとて人らしい行ひせりと思ふめでたさ



3.尼子四郎の人柄


尼子四郎と富士川游は終生変わらぬ大親友でした。尼子が長男を富士郎と名付けたことからも、二人の深い友情がうかがえます。追悼の最後の述懐には大親友ならでは哀切たる気持ちがあふれています。

尼子君は現代に稀に見るところの人格を備えた紳士でありました。特に医師としては真実の意味にての仁術家でありました。晩年には円転滑脱とまでは行かなかったとしても、しかし大抵の人々からは円満の性格であると思われました。しかし、私が初めて相知った頃は負けることの嫌な人で、その言動は直情径行的でありました。正義を愛し不正を悪むことが甚だしく、しかもその場合には常に言論を先にするという風でありましたから、時としては他から誤解せられたこともありました。皮肉なることを言うことも中々上手でありました。私も固よりそういう点に於いては君の下に居なかったのでありましたから、随分相争うたこともありましたが、しかし、一回も喧嘩をしたことはありませぬ。頑固と剛情とで知られて居った私を相手にするは面倒なと敬遠せられたのでありましょう。

富士川游 故壽山尼子四郎君 [故尼子四郎氏追悼号] 
藝備醫事 410号 P279-287 昭和5(1930)年

永井潜も広島県出身です。東京帝国大学の後輩で、東京の住まいも近くでした。尼子を先輩と慕い、家族のかかりつけ医と頼っていました。格調高い哀悼を寄せています。

生命と芸術とは、必ずしも二つのものでなく、その一生の日記は、立派な芸術であり、詩歌であって、長く休光を後世に垂れるものであります。畏友尼子四郎君の如きは、正にこれに相当すると信ずるのであります。

甚だ無遠慮な言い分ではあるが、個人は何等の肩書もない金力も権力のない、一介の町医者で終始されたのであります。しかし、故人を知れる者は、絶大の信頼を故人に繋ぎ、師父の如く故人を敬愛したのは、何故であったのでありましょうか。それは、空虚な肩書や、金力や、権力を超越せる所の徳の力でなくて何でありましょう。故人は徳によって生きた人でありました。そしてこの徳が、故人をして真の人たらしめ、善の人たらしめ、美の人たらしめたのであります。

真の人であった故人は、頗る真面目な人であり、正直な人でありました。そして学問に対して強い憧憬を有していた人でありました。独力で医学中央雑誌を経営し、そして其の収益を挙げて、年金を東大医学部に寄附し、懸賞論文の賞に充てられた如きは、即ちその一端の発露に外ならなかったのであります。


永井潜 畏友尼子四郎君を憶う [故尼子四郎氏追悼号] 藝備醫事 410号 P290-291 昭和5(1930)年

尼子四郎は文学・芸術の愛好家でした。文献Eの斎藤晴恵論文の中に、「当時の書生の記述によれば、大正12年頃の尼子医院の二階の書棚には文学書が多くあり、漱石全集、日本古典文学全集、国訳漢文大系、音楽、ドイツ版の美術書などがあった」とあります。

以下は、尼子が、自分の好む文学者について書いているものです。

余の私淑する人物は、東で菅茶山、西でフリードリッヒ・シルレルである。現在の我が日本ではシルレルはよく知られて居るが、茶山は余り知られて居ない。殊に彼が醫家たりしことは殆ど知られて居ない様である・・・(以下茶山の紹介が続く)

尼子壽山 名家の醫家文學者観 醫文學 第1巻1号 P41 1925

「医師兼文学者」を特集したこの記事で、尼子に続く執筆者は、地域医療ジャーナル 2021年08月号で紹介した小酒井不木
(こさかいふぼく)でした。不木は、私淑する人物としてポーとドストエフスキーを上げています。尼子が好むシルレル(シラー)はドストエフスキーが愛した作家でもありました。尼子も不木も、求められた医師兼文学者という主旨を外して、好きな作家を上げているのが愉快です。当時、『醫文學』という雑誌が刊行されたというのも感慨深く思われました。




第2回 尼子四郎と「医学中央雑誌」 


はじめに

医中誌Webの前身にあたる医学中央雑誌は、明治36年(1903年)市井の医師、尼子四郎によって創刊されました。昭和3年(1928年)以降は、長男富士郎に引き継がれました。富士郎没後も、時代の変遷とともに冊子からCD-ROM、さらに医中誌Webへと形を変えながら成長・発展を続け、医学界に多大な恩恵をもたらしています。

医学中央雑誌の誕生・成り立ち・歴史 などに関しては、以下の文献・サイトが参考になります。

参考文献
@宮野昌明 医学中央雑誌の成り立ちとその概要 医学図書館 1999; 46(3): 282-286
A藤島隆 尼子四郎と「医学中央雑誌」の誕生 
北の文庫 13号:7-23 (1987.12) 札幌・北の文庫社
B松田真美 医学中央雑誌110年の歴史を振り返って 
薬学図書館 60(1):71-80 2015
C医学中央雑誌刊行会のあゆみ(医学中央雑誌刊行会)
D医学中央雑誌刊行会 歴代理事長 (医学中央雑誌刊行会)
E門川俊明 医家向け電脳道具箱その弐「医学中央雑誌刊行会訪問記」
医学のあゆみ Vol220 No.7 2007 588-591(「研究留学ネット管理人のブログ」にて転載)
F医学中央雑誌創刊120周年記念特設ページ(2023年3月)追加

私の最大の関心事は、尼子四郎がなぜ「医学中央雑誌」を創刊したのか。いかなる志を抱き、どのようなビジョンやアイディアを持っていたのか、ということです。自叙伝が東京大空襲で失われたことはとても残念ですが、なにかヒントになりそうな尼子四郎自身の言葉に出会いたいと願っていました。

そんなとき、医学中央雑誌刊行会のサイトで、以下のページをみつけました。

医中誌アーカイブとOLD医中誌(医学中央雑誌刊行会)

2011年10月、<国立国会図書館デジタル化資料>の一コンテンツとして、1903年発行の創刊号から1983年3月発行分までの医学中央雑誌バックナンバー全ページの画像ファイルが公開されました。この完全公開は、医学史などの研究者らに高く評価されているとのことです。

さっそくアクセスして、デジタル画像をめくってみました。「医学中央雑誌」に対する尼子四郎の熱い思いが伝わってくるようで、リアルな感動を覚えました。

「国立国会図書館デジタルコレクション」
醫學中央雜誌 = Japana centra revuo medicina【全号まとめ】



1. 尼子四郎が「医学中央雑誌」で目指したこと

「国立国会図書館デジタルコレクション」で医学中央雑誌を検索した中から、尼子四郎が何を目指していたかのヒントになる2件を紹介します。

1)謹告 医学中央雑誌 明治36年3月
醫學中央雜誌 = Japana centra revuo medicina (2)1903-04

この「謹告」は参考文献@ABDに画像と共に解説されています。Aの藤島隆論文はアクセスができない幻の論文でしたが、このたび「国立国会図書館デジタルコレクション」で確認できました。送信サービスで閲覧が可能になっています。

「謹告」には、尼子四郎のアイディアが具体的に示されています。冒頭部分を現代仮名遣いに変えて引用します。

医学中央雑誌はドイツ国に於いて盛んに行わるるところの中央雑誌Centralblattの中にて、特に博覧の便ある医学全科を各科分かちてもらさず抄録し、加うるに各家名家の論説、外国医事雑誌に搭載せられたる実験中、特に診断並びに治療に関するものの抄録、内外学会記事、新薬及び新機械、内外新刊書籍等を掲載し、以って、熱心なる研究家には分籍穿索の便を与え、多忙なる実地家には、一見医界の趨勢を知るの益を与うるを主旨とす。


2)尼子四郎 富士川游著『日本醫学史』を讀む。
醫學中央雜誌 = Japana centra revuo medicina (23)1905-01

尼子四郎が富士川游の著作に寄せた書評です。富士川は尼子の広島医学校の同級生であり、生涯の盟友でもありました。この書評を書いたのは1905年、尼子四郎40歳のころです。1903年に千駄木で開業、同年「医学中央雑誌」を創刊してまもないころでもあり、尼子の学問に対する憧憬と情熱、医学への貢献を期する強い決意が感じ取れます。志を共にする富士川と我が身を重ね、自らを奮い立たせているようでもあります。現代仮名遣いに変えて一部引用します。

世の史学者はこれを激賞して模範的科学歴史となし、或いはこれを以って近来の大著となし、而してこの空前の大著述を以ってわが国の独り武事に長せるのみにあらざることを世界に誇示するの好材料なりと賛嘆せり。これ医学史は一個の科学なり。医学に属する一個の自然科学なり。

著者がこの書の著述に従事するや、一に根本史料に依り、所謂孫引きをなさず、他人の議論、若しくは著述、大抵これを一読せるも、而かも本書中には僅かにその一端を載せるに止まり。実に著者は、この日本医学史を編修するにあたりて少なくとも二萬巻の書籍を読破したるなり。この学識はなお或いは及ぶべし。識見はなお或いは養うを得べし。しかも、その堅忍の志操に至りては到底常人の及ぶ所にあらず。

著者は開業医師にして医事雑誌の編集を主幹し、多忙殆ど余暇なきにも拘わらず、毎日二時間を割てこの業に充て、二十年間一日も休まず、その熱心と敏捷とは共に儕輩をして到底、企て及ぶべからずとの念を起こさしめたり。


2. 父の志を継いだ尼子富士郎

参考文献

@尼子富士郎 医学の文献について 
日本医師会雑誌 59(1):71-72 1968
A酒井シヅ 医学史を紐解く―近代の先駆者たち 2 尼子 富士郎 日本の老年医学の開拓者 メディカルトリビューン 第44巻第8号 2011
B小澤利男  老年医学の道を歩んで―総合機能評価 CGA の導入と発展を考える(日本老年医学会第2 回尼子賞受賞講演)日老医誌 2017;54:211―221
C大友 英一 日本における老年医学の創設期 (日本老年医学会設立 50 周年記念式典・記念講演)日老医誌 2008;45:579―581
D小澤利男 「尼子富士郎:わが国老年医学の父」 Geriatric Medicine Vol.43(2):359-362 2005

E尼子本(東京大学附属図書館)
F村上元孝 関増爾 編 『尼子富士郎』 
医学中央雑誌刊行会 1978.3


1)尼子富士郎の略歴

尼子富士郎は、1893(明治26)年、尼子四郎の長男として山口県下松市に生まれました。まもなく一家で上京します。1903年、父四郎は千駄木で尼子医院を開業。同じ年に「医学中央雑誌」を創刊しました。尼子富士郎は、1918年、東京帝国大学医学部を卒業して稲田内科に入局します。1923年、関東大震災で被災した窮乏高齢者の保護に関わったことから、稲田教授の推挙を受けて、1926年に設立された財団法人浴風会(養老施設)の医長に就任しました。1960年に浴風会病院長に就任するまでの尼子富士郎の肩書は、35年の長きにわたって養老院の一介の医長にすぎませんでした。しかし、世界に先駆けて老年医学に着目し、その研究・教育・臨床に生涯を捧げたその業績は高く評価され、わが国における近代老年学の父と称せられています。日本老年医学会には「尼子賞」が設けられています。その一方で、1928年以降は体調を崩した父に代わって、医学中央雑誌の編集を引き継ぎました。文献の採択、抄録の編集、校正について、そのすべてに目を通すという徹底ぶりでした。この仕事を優先するために生涯外国に出ませんでした。1972年3月17日に多発性骨髄腫で死亡。享年78歳。

2)尼子富士郎 医学の文献について

富士郎の主たる業績は老年医学にありますが、「医学中央雑誌」への貢献も大きいものです。1967年、その功績により日本医師会最高優功賞を受賞しました。そのとき、日本医師会雑誌に載せた富士郎自身による述懐が残っています。一部引用させていただきます。


医学中央雑誌は、明治36年(1903年)私の父が当時九大耳鼻咽喉科教授であられた久保猪之吉先生のご援助のもとに刊行の運びにいたったように聞いております。そのころ、ドイツのZentralblattが医学界のために非常な貢献をなしていたのに倣い、わが国においてもこれを試みようと考えたのでありましょう。

第二次大戦の末期から終戦時にかけて、わが国の物資が極端に窮乏に陥ったときは、医学中央雑誌もしばしば廃刊の危険に瀕しましたが、各方面のご厚意によりましてほそぼそとい刊行を続けることができました。そしてその後わが国の医学の興隆に追随して、医学中央雑誌も順調に刊行を続け、今日に至ったのであります。

医学中央雑誌はわが国において発表された文献全部を網羅するのを建て前にしておりますので、長所もありますが、他方いろいろの欠点も現れております。たとえば、抄録が遅れがちであること、特に索引の発行が遅いことなどは強く指摘されたところであります。

しかしこれは、医学中央雑誌の編集発行が経済上の理由で、ごく少ない人数で運営されているということに基因するのであります。すなわち発行部数が少ないという点で大きな制約を受けているのであります。しかし、医学中央雑誌が多くの研究者に広く利用されていることは現実ですから、その要望にこたえるため、編集同人努力を続け、少しでも改善の方向に進めたいと念じている次第であります。

医学中央雑誌の長所としては、わが国文献の全部を通覧することができ、したがって自分の専門ははもちろん、医師として必要な他の分野における進歩をも併せて知り得ることであると考えます。これに関しては完全な索引の整備がぜひ必要なのでありますが、この点がいまだ不十分なのは私どもの努力がなお足りないのでありまして、深く自責している次第であります。

尼子富士郎 医学の文献について 日本医師会雑誌 59(1):71-72 1968


3)尼子富士郎の人柄

小澤利男は尼子富士郎の人柄を生き生きと描いています。一部引用させていただきます。

学生時代、尼子先生の講義を聴き、また浴風会で1年常勤として勤務して先生から直接の薫陶を受け、老年医学の道を歩むことになった。先生は新着の外国雑誌のすべてに目を通しておられ、読まれた文献には印がつけられていた。亡くなる4日前まで文献に目を通されていた。「どんなに年をとっても仕事を続けなければならない。それが健康の因であり、長寿の秘訣でもある」と言われた。

多趣味で、医局対抗野球では投手を務め、ゴルフの名手であった。碁は専門の棋士に学んでおられて、常人には歯が立たない腕前であった。麻雀もされるが、賭けるということはなかった。父君が漱石の主治医であった関係もあり、文学・芸術にも造詣が深かった。

生涯、地位、名誉、利殖とは無縁の生活を貫かれた。学会発表や論文に、ご自分の名前を入れるのを許されなかった。叙勲を固辞された。中元、歳暮や往診料は、絶対に受け取られなかった。戦時中は密かに外地にいる医局員に文藝春秋などを送られた。読みたいと思う外国の図書は、先生にお願いすると購入してくださった。こうした費用のほとんどは私財である。だが、そのようなことはおくびにも出されなかった。

信仰や宗教とも無縁であった。ご葬儀は浴風会の礼拝堂で施行され、祭壇には世界の老年医学会雑誌が飾られてあった。ベートーベンの田園交響楽が静かに流れていた。

小澤利男著 尼子富士郎:わが国老年医学の父 Geriatric Medicine Vol.43(2):359-362 2005



3. 医中誌WebとPubMed / PubMedの父:John Shaw Billings

日本最大の医学関連文献データベース医中誌Web。かたや、世界最大の医学・生物学文献データベースPubMed。両者には、多く共通点があります。医学中央雑誌刊行会サイトで次のように説明されています。

2022年のバージョンアップにて、「日本語によるPubMed検索機能」を備えました。医中誌Webのシソーラス「医学用語シソーラス」は、登録されている語の多くがPubMedのシソーラス「MeSH」と紐づいています。また、医中誌WebとPubMedとは、その他にも論文種類、副標目、チェックタグ、研究デザインなど多くの共通点を持っています。これらを活かし、論文検索と同等の検索方法でPubMedを検索できます。

PubMed検索(医学中央雑誌刊行会)

シソーラスとは情報検索において、用語の範囲、関連語との関係などを記したリストのことです。検索語を捜したり、疾患の概念を掴むための助けになります。医学中央雑誌刊行会提供のシソーラスブラウザ(無料公開版)はたいへん便利です。「医学用語シソーラス」と「MeSH」が紐づけされているので、検索した画面の「MeSH用語」をクリックするだけで、PubMed検索が実行されます。また同義語も検索の助けになります。

ところで、Index Medicusの父と言われる人物がいるとしたら、それは誰でしょうか。いまごろになって恥ずかしいのですが、このたび初めて、 John Shaw Billingsという人物がその人であることを、以下の論文&著作で知りました。

山口直比古 Index Medicusの誕生 医学図書館 28 (1): 1〜10, 1981
山口直比古『Index MedicusからPubMedまで 医学文献検索の発展』日本医学図書館協会 2022


1888年、 Billingsが、母校で行った講演の中で、Index Medicus の 誕生のきっかけになった体験を語っています。山口氏の論文から一部簡略して引用させていただきます。

私 (Billings) の学位論文は「てんかんの治療に適応された外科手術」でした。それを書きあげるためには、統計的データが必須でした。私は、必要なデータ、オリジナル論文や書籍を手に入れるために、公共図書館、個人図書館など、国中を探しまわりました。そして6か月後、私は3つのことを確信するに至りました。第1には、特定の主題についての文献を雑誌や医学書から探すのには多大な時間と労力を要し、しかも、資料に付与された索引が必ずしも中身の内容を知るためのガイドにならないこと。第2には、雑誌や医学書の数が膨大であること。第3にはすべての医学文献を所蔵している図書館は世界中のどこにもない、ということでした。戦争が終わり、チャンスが与えられたとき、この時の経験が、私に、アメリカの医師たちのために完全な医学図書館を作り、また、学生や研究者たちが文献を探しまわる苦労をしなくてもいいように包括的な索引を準備しようと決意させたのでした。

山口直比古 Index Medicusの誕生 医学図書館 28 (1): 1〜10, 1981


Billings の決意と、尼子四郎が「医学中央雑誌」に掲げた謹告「熱心なる研究家には分籍穿索の便を与え、多忙なる実地家には、一見医界の趨勢を知るの益を与うるを主旨とす」は、呼応しあっています。

おわりに

尼子四郎が医学中央雑誌を創刊した1903年当時、日本における医学の文献数は2,000件程度でした。現在の医中誌Webは、国内発行の医学関連分野の約4,000誌から毎年約40万件の文献情報が収録されています。医学・医療・福祉に関わるすべての人々、報道関係者、また、患者・家族たち、医療や健康に関心を持つ一般市民たちにとっても、他に代わるもののない必須の情報源であると確信しています。

私にとって、医中誌WebとPubMedは頼もしい親友のような存在です。病気の情報だけでなく、人生の楽しみのためにも欠かせません。「医学と文学」に対する興味を膨らませ、関心の幅を広げることができるのも、この親友あってこそです。PubMedにならって、医中誌Webをインターネットで無料公開して欲しいと切に願っています。



第3回 尼子四郎と夏目漱石


はじめに

引用・参考文献

@尼子四郎 「猫」のモデル 近代作家追悼文集集成 第5巻:夏目漱石 
P.194-196 ゆまに書房 昭和62(1987)年
A夏目漱石『吾輩は猫である』(1905- 1907)
B夏目鏡子『漱石の思い出』(1966年)
C高橋正雄  夏目漱石の『吾輩は猫である』─続・文学にみる医師像 Web医事新報 No.4989 (2019年12月07日発行) P.60
D高橋正雄 漱石文学が物語るもの 神経衰弱者への畏敬と癒し みすず書房 2009
E漱石書簡集 三好行雄 岩波文庫
F斎藤晴恵 尼子四郎と夏目漱石 医学図書館 53(1):60-64 2006
G漱石と広島 15:尼子四郎 「猫」に登場する家庭医 中國新聞(セレクト)2017.5.6 [医学中央雑誌刊行会]
H長與又郎 夏目漱石氏剖検 日本消化器病学会雑誌 16(2):105-117 1917
I夏目漱石デジタルコレクション 県立神奈川近代文学館所蔵

明治36(1903)年、夏目漱石と尼子四郎はそれぞれ千駄木に居を構えました。漱石は2年間の英国留学を終えて帰国したところで、4月から一高・東大の講師となります。36歳でした。一方、尼子四郎は「尼子医院」を開業しました。39歳でした。漱石は『吾輩は猫である』で作家としての第一歩を踏み出し、一方、尼子四郎は、「医学中央雑誌」を創刊します。両者ともに人生における一大画期をなした時代でした。二人の家は近く、尼子は漱石一家の家庭医になります。


1.尼子四郎が語った夏目漱石の思い出

漱石と尼子の間には医師と患者という関係以上の交流があったと想像していますが、実証できる資料は多くはありません。その中で、尼子四郎自身が漱石とのつきあいを語った貴重な文章が残っています。いくつかの発見がありました。一部、引用させていただきます。

「猫」のモデル 

尼子四郎


漱石さんが「猫」を書いていた36年ごろは、千駄木の私の医院の近くに居たものだから、お互いに懇意にして話に行ったりしたが、私などは、何もこれと言って話の種があって行くのではなく、ただ呑気に遊びに行くだけであった。長い間繁々と行っていた。

千駄木に居たころから胃の方が悪いと言って、私なども診たこともあったが、それより私の注意を惹いたのは、漱石さんの心理上における医学上のおもしろい現象であった。いわば一種病的な現象なのである。わたしは絶えず、それから目を離さなかった。寺田虎彦氏などもこの心理上の現象は認めていて、時々私と語り合っていた。

私などから見た、漱石さんは、怒ったことも、不機嫌なこともなく、つねに微笑をたたえた人で、こちらが天真爛漫で行けば、あの人の家ほど行きやすいところはなかった。寺田虎彦さんなども、漱石さんの家が唯一の遊び場所であったのが、亡くなられてからは遊び場所がなくなったと言っておられる。

私のことは「猫」の中に、甘木医師として書いてあるそうだ。あの時分千駄木の家に黒い大きな猫がのそのそ歩いていたが、ある時、私が「これがそうですか」と尋ねると漱石さんはこれじゃない、と言っていた。

博士号の問題の時も、私が、有効な清涼剤ですね、と言うと、漱石さんはただ笑って、君もそう思ってくれているか、と言ったばかりで、別に説明などをしなかった。一体に自分のしたことを説明しない人であった。

尼子四郎 「猫」のモデル 近代作家追悼文集集成 第5巻:夏目漱石 ゆまに書房 昭和62(1987)年


2.尼子四郎の精神医学への関心

「漱石さんの一種病的な現象に興味を惹かれた。わたしはそこから目を離さなかった」と語っているように、尼子四郎は一般開業医でありながら、精神医学に対して特別な関心を抱いていたようです。

「国立国会図書館デジタルコレクション」で、以下の記事が確認できました。

●尼子四郎氏は東京醫科大學精神病學室助手に任せられ、同時に東京府巣鴨病院醫員を囑託せられたり
芸備医事 第9年(4)(95)1904

●尼子四カ モルヒネ中毒に於ける催眠術の價値
醫海時報 (549) 1904

●尼子四カ君講演ありたり 麻痺狂經過中に發したる緊張狂症状に就て
醫海時報 (526)1904

●尼子四カ 軍隊ニ於ケル歇私的里(ヒステリー)ニ就テ
芸備医事 第12年(10)(137)1907 

富士川游の追悼には、「尼子君は、呉博士の推薦によって東京府巣鴨病院の医員となりて精神病学の実際方面を研究し、日露戦役の折には東京の陸軍予備病院の医務に従事し、その間、男子ヒステリーに就て研究せられました」とあります。

呉博士というのは、呉秀三のことで、鏡子夫人の『漱石の思い出』にも出てきます。ロンドンから帰国して以来、漱石が頻繁におこす癇癪に困惑しきった鏡子夫人は、尼子先生に、自分を診るついでに、顔色が悪いとか何とか言って漱石を診て欲しいと頼みます。夫人は次のように語っています。

四五日たつと、尼子さんがみえてのお話に、よほど話がうまく運んだとみえて診察されたというのです。どんなでしたかとおうかがいしますと、どうもただの神経衰弱じゃないようだと首を傾げられます。それでは、と重ねておうかがいしますれば、精神病の一種じゃあるまいか。しかし自分一人では何ともそこのところが申し上げかねるから、呉博士に診ていただいたらというお話です。<中略> そのうちに尼子さんがお約束通り、呉さんに診せてくださいましたということだったので、呉さんのところに様子を伺いに参りますと、ああいう病気は一生なおり切るということはないものだ。なおったと思うのは一時鎮静しているばかりで、後でまたきまって出てくると申されて、それから病気の説明をいろいろ詳しく聞かしてくださいました。私もそれを聞いてなるほどと思いまして、ようやく腹が決まりました。病気ときまってみれば、その覚悟で安心していけるとそう思いました。

夏目鏡子『漱石の思い出』(1966年)

漱石は、尼子四郎と呉秀三を通して自分の病気や精神医学について学び、一方、尼子と呉は漱石との出会いを心に深く刻んだであろう、と想像しています。


3.尼子医師と患者漱石

明治39(1906)年に発表された夏目漱石の『吾輩は猫である』の第8話には、漱石自身がモデルとされる苦沙弥先生が、尼子四郎がモデルとされる甘木先生の診察で、催眠術を試される場面が描かれています。高橋正雄氏はこの場面の医師患者関係について、次のように述べています。

苦沙弥と甘木先生の間には、催眠術ができるとかできないとかを超越した別次元での信頼関係が形成されていたのであり、甘木先生に診察してもらうこと自体に、治療的な意味があったものと思われる。

それにしても、一般開業医の甘木先生が催眠術を試みるというのは、いかにも突飛に思われます。高橋正雄氏はその理由、および漱石の神経衰弱の療養に関しても、以下の納得できる推察をしています。

催眠術については、尼子医師が呉秀三が教授を務めていた東大の精神病学教室の医員でもあったことが影響しているのではないか。また、当時の東大では、後に森田療法を創始する森田正馬が催眠術の研究をしていたので、尼子がそれを教わっていた可能性も考えられる。それに加えて、「尼子医院」と森田正馬の家は徒歩で7〜8分の距離で、尼子医師は森田家の家庭医でもあったこと、森田の五高時代には漱石が教鞭をとっていて、しかも五高時代の森田の親友が寺田寅彦だったなどを考えると、甘木先生が苦沙弥に催眠術を施すという設定の背後には、漱石の神経衰弱をめぐる尼子・森田・寺田という三者の浅からぬ因縁も想定される。あるいは、漱石があれほどの幻覚や妄想がありながら入院せずにすんだのも、こうした尼子医師らの支えがあったればこそかもしれない。

C高橋正雄  夏目漱石の『吾輩は猫である』─続・文学にみる医師像 Web医事新報 No.4989 (2019年12月07日発行) P.60


4.神経衰弱文学

高橋正雄氏は、漱石の文学を「神経衰弱文学」と名づけ、その意義を以下のように述べています。

漱石文学は、神経衰弱的な人物を中心にした一種の「神経衰弱文学」としての側面がある。自らも神経衰弱であった漱石は作品を通して自己の立場を擁護し、周囲の反省を促そうとした。さらに重要なこととして、作品の中に神経衰弱者を描くことによって、治療的な可能性を模索していたのではないか。

高橋正雄 漱石文学が物語るもの 神経衰弱者への畏敬と癒し みすず書房 2009

「神経衰弱文学」を裏づけるような漱石の書簡が残っています。千駄木で『吾輩は猫である』を執筆していた明治39(1906)年、漱石から鈴木三重吉に宛てた手紙です。鈴木三重吉は広島県出身。東大で漱石の講義を受けていましたが、手紙の当時は神経衰弱で休学していました。神経衰弱の師から神経衰弱の弟子に宛てた手紙です。

今の世に神経衰弱に罹らぬ奴は金持ちの愚鈍ものか、無教育の徒か、さらずば二十世紀の軽薄に満足するひょうろく玉に候。もし死ぬならば、神経衰弱で死んだら名誉だろうと思う。時があったら神経衰弱論を草して天下の犬どもに犬であることを自覚させてやりたいと思う。(6月7日 鈴木三重吉宛)

漱石書簡集 三好行雄編 岩波文庫

私はこれまで『吾輩は猫である』を呑気な風刺文学としてさらっと読み飛ばしていました。しかし、漱石と尼子四郎の因縁から高橋氏の著書を読むに至って、『吾輩は猫である』に限らず、漱石文学の読み方が大きく変わりました。「医学と文学」のレンズによる視点に気づいたのです。医学中央雑誌の父の尼子四郎が『吾輩は猫である』に登場していることは、私にとっては運命的なことのようにさえ思われました。


5.『吾輩は猫である』に描かれた甘木(尼子)医師

『吾輩は猫である』は発表当時から評判になりました。登場人物のモデルについてもさまざま詮議があったことを鏡子夫人が語っています。その中でも甘木先生=尼子医師モデル説は、問題なく受け入れられているようです。

『吾輩は猫である』の中に甘木先生の名前が出る場面は6カ所あります。温かな甘木先生の姿が目に浮かぶようです。以下に引用します。

(1) 【第2話】細君が歳末のお歳暮代わりに義太夫に連れて行って欲しいと言い出します。苦沙弥は気が進みません。悪寒がするので、甘木先生を迎えにやりますが、あいにく大学の当番で留守でした。出かけるタイムリミット近くになって、ようやく甘木先生がやってきます。この箇所は、苦沙弥が語り手で聞き手は迷亭と寒月です。

甘木先生は僕の舌をながめて、手を握って、胸をたたいて背を撫でて、目縁を引っ繰り返して、頭蓋骨をさすって、しばらく考え込んでいる。「どうも少し険呑のような気がしまして」と僕が云うと、先生は落ちついて、「いえ格別の事もございますまい」と云う。「あのちょっとくらい外出致してもさしつかえはございますまいね」と細君が聞く。「さよう」と先生はまた考え込む。「御気分さえ御悪くなければ……」「気分は悪いですよ」と僕がいう。「じゃともかくも頓服と水薬を上げますから」「へえどうか、何だかちと、危ないようになりそうですな」「いや決して御心配になるほどの事じゃございません、神経を御起しになるといけませんよ」と先生が帰る。

(2) 【第2話】吾輩(猫)が恋していた三毛子の死についての飼い主と下女の会話。甘木先生は猫の診察もしたようです。

「ほんとに残念な事を致しましたね。始めはちょいと風邪を引いたんでございましょうがねえ」「甘木さんが薬でも下さると、よかったかも知れないよ」「一体あの甘木さんが悪うございますよ、あんまり三毛を馬鹿にし過ぎまさあね」「そう人様の事を悪く云うものではない。これも寿命だから」

(3)【第2話】迷亭と細君の会話

「苦沙弥はどこへ行ったんですかね」「どこへ参るにも断わって行った事の無い男ですから分りかねますが、大方御医者へでも行ったんでしょう」「甘木さんですか、甘木さんもあんな病人に捕まっちゃ災難ですな」「へえ」と細君は挨拶のしようもないと見えて簡単な答えをする。迷亭は一向いっこう頓着しない。「近頃はどうです、少しは胃の加減がいいんですか」「いいか悪いかとんと分りません、いくら甘木さんにかかったって、あんなにジャムばかりなめては胃病の直る訳がないと思います」と細君は先刻の不平をあんに迷亭に洩らす。

(4)【第3話】苦沙弥と細君の会話

「博士なんて到底駄目ですよ」と主人は細君にまで見離される。「これでも今になるかも知れん、軽蔑するな。貴様なぞは知るまいが昔アイソクラチスと云う人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリスが傑作を出して天下を驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニジスは八十で妙詩を作った。おれだって……」「馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか」と細君はちゃんと主人の寿命を予算している。「失敬な、― 甘木さんへ行って聞いて見ろ ― 元来御前がこんなしわくちゃな黒木綿の羽織や、つぎだらけの着物を着せておくから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから迷亭の着ているような奴を着るから出しておけ」

(5)【第4話】苦沙弥と細君の会話

「御前の頭にゃ大きな禿があるぜ。知ってるか」「ええ」と細君は依然として仕事の手をやめずに答える。別段露見を恐れた様子もない。超然たる模範妻君である。「禿なんざどうだって宜いじゃありませんか」とおおいに悟ったものである。「女は髷に結ゆうと、ここが釣れますから誰でも禿げるんですわ」と少しく弁護しだす。「そんな速度で、みんな禿げたら、四十くらいになれば、からやかんばかり出来なければならん。そりゃ病気に違いない。伝染するかも知れん、今のうち早く甘木さんに見て貰え」と主人はしきりに自分の頭を撫なで廻して見る。

(6)【第8話】甘木先生が苦沙弥に催眠術をかけます。

(主人は)かくのごとく年が年中かんしゃくを起しつづけはちと変だと気が付いた。やはり医者の薬でも飲んでかんしゃくの源に賄賂でも使って慰撫するよりほかに道はない。こう覚ったから平生かかりつけの甘木先生を迎えて診察を受けて見ようと云う量見を起したのである。甘木先生は例のごとく、にこにこと落ちつき払って、「どうです」と云う。医者は大抵どうですと云うに極きまってる。吾輩は「どうです」と云わない医者はどうも信用をおく気にならん。
「先生どうも駄目ですよ」
「え、何そんな事があるものですか」
「一体医者の薬は利くものでしょうか」
 甘木先生も驚ろいたが、そこは温厚の長者だから、別段激した様子もなく、
「利かん事もないです」と穏かに答えた。
「私の胃病なんか、いくら薬を飲んでも同じ事ですぜ」
「決して、そんな事はない」
「ないですかな。少しは善くなりますかな」と自分の胃の事を人に聞いて見る。
「そう急には癒りません、だんだん利きます。今でももとより大分だいぶよくなっています」
「そうですかな」
「やはり肝癪が起りますか」
「起りますとも、夢にまで肝癪を起します」
「運動でも、少しなさったらいいでしょう」
「運動すると、なお肝癪が起ります」
 甘木先生もあきれ返ったものと見えて、
「どれ一つ拝見しましょうか」と診察を始める。診察を終るのを待ちかねた主人は、突然大きな声を出して、
「先生、せんだって催眠術のかいてある本を読んだら、催眠術を応用して手癖のわるいんだの、いろいろな病気だのを直す事が出来ると書いてあったですが、本当でしょうか」と聞く。
「ええ、そう云う療法もあります」
「今でもやるんですか」
「ええ」
「催眠術をかけるのはむずかしいものでしょうか」
「なに訳はありません、私などもよく懸けます」
「先生もやるんですか」
「ええ、一つやって見ましょうか。誰でもかからなければならん理窟のものです。あなたさえ善よければかけて見ましょう」
「そいつは面白い、一つかけて下さい。私もとうからかかって見たいと思ったんです。しかしかかりきりで眼が覚さめないと困るな」
「なに大丈夫です。それじゃやりましょう」
 相談はたちまち一決して、主人はいよいよ催眠術をかけらるる事となった。吾輩は今までこんな事を見た事がないから心ひそかに喜んでその結果を座敷の隅から拝見する。先生はまず、主人の眼からかけ始めた。その方法を見ていると、両眼の上瞼を上から下へと撫でて、主人がすでに眼を眠っているにもかかわらず、しきりに同じ方向へくせを付けたがっている。しばらくすると先生は主人に向って「こうやって、瞼を撫でていると、だんだん眼が重たくなるでしょう」と聞いた。主人は「なるほど重くなりますな」と答える。先生はなお同じように撫でおろし、撫でおろし「だんだん重くなりますよ、ようござんすか」と云う。主人もその気になったものか、何とも云わずに黙っている。同じ摩擦法はまた三四分繰り返される。最後に甘木先生は「さあもう開きませんぜ」と云われた。可哀想に主人の眼はとうとうつぶれてしまった。「もう開かんのですか」「ええもうあきません」主人は黙然として目を眠っている。吾輩は主人がもう盲目になったものと思い込んでしまった。しばらくして先生は「あけるなら開いて御覧なさい。とうていあけないから」と云われる。「そうですか」と云うが早いか主人は普通の通り両眼を開いていた。主人はにやにや笑いながら「かかりませんな」と云うと甘木先生も同じく笑いながら「ええ、かかりません」と云う。催眠術はついに不成功におわる。甘木先生も帰る。

夏目漱石『吾輩は猫である』(1905-1907)


おわりに

夏目漱石は、初期の肺病
(27歳)、神経衰弱、胃病、痔、糖尿病など多くの持病をかかえていましたが、死病になったのは胃潰瘍でした。大正5(1916)年11月に胃潰瘍が悪化し、12月9日に死去しました。享年49歳。『明暗』の執筆途中でした。死の翌日、遺体は漱石の気持ちをくんだ鏡子夫人の申し出により、東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖されました。

長與又郎 夏目漱石氏剖検 日本消化器病学会雑誌 16(2):105-117 1917

尼子四郎と尼子富士郎が医学界に与えた恩恵は多大です。二人の名はもっと広く知られてよいと思います。一方、夏目漱石を知らない日本人はいないでしょう。私は、このたび「医学中央雑誌」の縁でつながったこの3人の人物の生き方・人柄が似通っているように感じられました。「回想」の中からふりかえってみましょう。

尼子四郎
甚だ無遠慮な言い方ではあるが、故人は何らの肩書もない金力も権力もない一介の町医者で終始したのであります。しかし、故人を知れる者は、絶大な信頼を故人に繋ぎ、師父の如く故人を愛したのであります。(永井潜)
尼子富士郎
同窓会などでは「君ほど出世と縁遠い男もめずらしいな」といわれ、大学教授などの誘いが何回かあったが、断固としてこれに応じなかった。尼子の高邁な志操と学究的意欲は、そのような名利を超越していた。(小澤利男)
夏目漱石
博士号の問題の時も、私が、有効な清涼剤ですね、と言うと、漱石さんはただ笑って、君もそう思ってくれているか、と言ったばかりで、別に説明などをしなかった。(尼子四郎)*博士号の問題というのは、漱石が44歳のとき、文部省が送ってきた「文学博士」の証書を送り返して世間の話題になった事件のことです。

三者共に虚飾や虚偽を嫌い、世間的な成功には無関心でした。一方で、学問や芸術に対する憧憬、情熱、探求心には、並外れて強いものがありました。若くして天命を知り、世のため人のため、自らの天分を発揮すべく、華々しさとは無縁の努力を日々コツコツと重ねました。遺された業績と作品は、後世の人々に、知る・学ぶ・考える喜びをもたらし続けています。その生涯を思うと、身が引き締まると同時に清々しい気持ちになります。