ある医学図書館員の軌跡
初出:地域医療ジャーナル 2022年11月号


患者にとっての「エビデンス」とは


下原康子

はじめに

現実とつながってこそ「エビデンス」が「エビデンス」たりえます。そのために欠かせないのが「合意形成」ですが、そこに到達するのは容易ではありません。その主たる要因の一つが、専門家と非専門家、医師と患者間の「情報の非対称」であることは否めません。

医学図書館員のわたしにとって、「EBM」「エビデンス」という言葉は「錦の御旗」でした。EBMを支えるロジスティックスを担うという司書の役割に誇りを覚えたものです。やがて、自分や家族や友人のためにも、病気のエビデンス情報を探すようになりました。たいていの人はその存在さえ知らない学術情報の巨大倉庫を、医療者と同じ環境、同じ条件で、制限なく利用したのです。つくづく、恵まれていたと思います。

退職後の2006年、がん専門病院の患者図書室を立ち上げる機会に恵まれました。医学図書館員の経験をフル活用して、「すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する」という「図書館の理念」に応えるべく力を尽くしたいと思いました。

「患者図書室サービス」で使うツールとして、また、時勢に遅れていくわたしの知識を(現役の医学図書館員の助けを借りて)更新することを目的に、以下のサイトを開設しました。

医学図書館員が選ぶ 患者・家族のための医学情報ウェブサイト

このサイトの中で、わたしが「学術情報」(具体的には、医学専門書、医学専門雑誌、医学論文、EBM情報、それらを検索する文献データベース など)にこだわったのは、そこが「エビデンス」の在処だからです。

「患者中心の医療」の実現のためには患者と医師の双方の「協働」が不可欠と言われています。現在、「協働」における医師側の努力については見聞きしますが、一方で、患者側に求められる行動についてはあまり議論されないようです。

患者側が努力できることの一つは「学ぶこと」だと思います。自分や家族のために情報を探したわたしの経験や「患者図書室」で出会った患者さんたちの言動の中から「情報は当事者本人が探すのがベストである」という確信を深めました。

「エビデンスと現実をつなぐ」ために医療者と患者の双方が具体的にできること。患者図書室における「患者さんの声」のなかにそのヒントを探したいと思います。


「学び」を求める患者さんたちの声 (患者図書室にて)

 患者図書室の挑戦 情報提供の記録
 より


「検査略語表と患者図書室」 (患者さんが書かれたエッセイ)

●膀胱全摘手術を受ける予定の患者さん「医師に手術方法を自分で決めるように言われました。一週間で決断するのは難しいです」。(専門書の『膀胱癌のすべて』を貸出した) 「医師からは専門書は無理と言われました。確かに難しくて頭が混乱しましたが、白紙でいるよりずっとよかったです」

●男性患者さん「会議室で、私の症例のカンファランスをしていました。参加したいと言ったら断られました」

●気になる症状が、抗がん剤、ホルモン剤などの副作用ではないかと「日本医薬品集」などで調べる人が多い。

●手術方法や治療計画など、医師との話し合いに備えて専門書を読む患者さんが多い。

●医学用語や略語(検査結果、病理結果、主治医の説明書やメモ、医学論文中の用語)などを調べる人が多い。

●前立腺がんの方「2〜3年前発行の本が多いけど、もう情報としては古いね」

●各種「診療/治療ガイドライン」を自分用に購入する人が多い。

●薬の副作用をうたがった患者さん「症状の経緯を主人の協力でエクセルの表にしました。主治医に見せたら感心されました」とうれしそう。

●パワーポイントで症例報告を作成している男性「先生にお見せになるのですか」と聞いたら「相手によりけり」

●専門的な医学会に参加してみたい、という男性あり。

●男性患者さん「頭でっかちになってもねえ」と言いながらも、専門書を読んで「疑問が解けた」

●初老の男性、一般書は見向きもせず専門書を貸出。「一般書は自分でも手に入るから」

●「がんで困ったとき開く本」は卒業しました。上級コースへ行きます、という男性。

●受験以来これほど勉強したことはありません、という中年男性。

●ストーマの本を返却の女性「主人は怖がって読まないので、私が」と別の2冊を貸出。

●『死ぬ瞬間』は、以前には挫折した本ですが、今は読みこなせました、という男性。

●高齢の男性、「患者によって副作用はさまざま、副作用の症状データベースがあればよい」と『がんと闘った科学者の記録』の戸塚洋二さんと同じ意見を述べられた。

●父娘来室。病気の父に代わって娘が勉強。ターミナルの本を指し示す父に、娘は「まだ早いわよ」と明るく。

●朝一番乗りの50代男性「まさか膵がんとは、きついねえ。知ることも勇気がいるねえ」

●入院男性、奥様と。「図書室に通いつめてがんの専門家になるぞ」と言われる一方、「哲学・心理学」に関心が。『がん哲学外来』を貸出。

●入院中の女性「病気になってはじめて自分のからだについて勉強するなんて」

●脳腫瘍の男性、抗がん剤の副作用を調べに。抗がん剤治療を続けるという選択の厳しさ、不条理さを淡々と語られる。

●検査値の読み方を調べていた男性、複数の本を読み比べて正常値の基準が違うことに疑問を呈された。

●子宮がんの女性、病理結果の専門用語を調べたい。関連書のインデックスから検索。専門情報志向の方は男女ともに少なくない。

●食道がんの入院男性、じっくり閲覧して「僕の状態は甘くない」と一言。

●『あなたの癌はがんもどき』を返却した女性(家族)に感想を聞く。「図書室にこの本が置いてあるのに驚きました。極論ですが真実が含まれていると思います」

●60代女性、胆道がんの専門書をじっくり。「むずかしくないですか?」と聞いたら「自分のことですから」と。

●『切らずに治すがん治療』を貸出した入院中の男性。「うるさい患者は嫌われるからね」と本にカバーをかけて持ち帰り。

●いきなり告知された。ここには専門的な本もあってありがたい。

●「もう治療は終わったのだけど」と言いながら『がん放置療法のすすめ』を借りる女性。

●直腸がんで入院の男性、看護学書を返却。「書いてあるとおりだったよ」

●明日が手術の腎がんの男性。「借りていた本がとても役にたちました」と言うだけのために来室。

●頭頚部がんの入院女性、術後の神経の麻痺が心配。解剖図譜、アトラスを閲覧。

●肺がんの男性、「抗がん剤の本ある?見たくないけどね」と言いつつ1時間閲覧。

●前立腺がん転移の男性、「知識は光」と言われる。

●看護実習生、悪性軟部肉腫の患者さんと来室。「患者さんの方がずっとくわしい」

●外来待ちの男性、前に見た専門書『膀胱がんのすべて』を再び読まれる。

●本や雑誌だけでは間に合わないという声も聞かれる。必要に応じて医学論文を提供する。

●「読んだ本にあった参考文献はどうやって探せばいいですか」とのおたずねあり。

●新聞記事の典拠を聞かれる方あり。

●かかっている医師の書いたものを読みたいという要望あり。

●腸閉塞(イレウス)で再入院の男性。詳しい情報が欲しい。スタッフ図書室の資料を探す。

●自作のがん学習ノート(分厚い)を持参して来室の男性。「前立腺がんの新薬認可の最新ニュースを追っかけている」

●夫がGISTの方、セカンドオピニオン希望。専門医の講演録を提供。数日後「この医師につながりました」

●希少がんや希少疾患の情報は「医中誌Web」の検索でしか間に合わないことが多い。

●専門情報志向の患者さんの要望でPubMed検索「自分のことだから、英語でも理解できます」

●付き合っている彼が骨腫瘍。インターネット情報では不足という彼女に雑誌論文を提供。

●取材のついでに来室の新聞記者さんに医中誌Webのミニレクチャー。

●膵がんの女性、最近の動向(専門的な)が知りたい。医中誌Web検索。

●病院長より「希少がん」に関する文献調査依頼あり。

●事務の女性、家族が希少疾患。病院探しの参考にするために医中誌Web検索。

●現役ナース。胆管がん(父)の情報を求めて。雑誌論文を入手したい。

●難病の女性、情報が少ない中、「癌取り扱い規約」から自分でみつけられた。

●提供した医学論文が意思決定のきっかけになることは稀ではない。

●「主人がPET検査を受けている。どういう検査?どのくらい時間がかかるの?」インターネットを見ていただく。所要時間については案外書いてない。

●ご主人が肺と腎のがん。カリウムを含む食材が禁止とのことで調べに。インターネットにリストがあった。

●海外勤務が長い患者さん、National Cancer Institute はごらんになっていたが、PubMedはご存じなかった。「家でじっくり見ます」

●開室を待ちかねたようにインターネットを使う入院男性。「先生の様子が深刻そうだったが、なるほど・・・」

●がんリンク集にあった英語サイトをアメリカにいる友人に翻訳してもらったという40代女性

●「娘がインターネットで代替療法を次々と調べてはすすめるの、私は気がすすまないのに」というおかあさん。

●「年だからほっとくという手もあったかな、でもみつかったからしょうがないよね」という男性。

●奥様が治療中のご主人、がん治療について「若い人には手厚く、高齢者の治療には再考を」といわれる。

●病院食で出てくる無添加調味料を自宅でも使いたいという男性、インターネット検索。業務用のようだ。


患者が書いた症例報告


「エビデンスと現実をつなぐ」ために右往左往した、ある患者の体験と挑戦を紹介します。

白内障手術の落とし穴 夫が書いた妻の症例報告

これは、実際には、患者本人であるわたしが書いたものです。夫は傍らで見守りながら、客観的な記述になるように、表現についてのアドバイスをくれました。「患者が症例報告を書く」というアイディアを思いついたのは、著名なジャーナリストのノーマン・カズンズの『笑いと治癒力』に触発されてのことです。

「症例報告」を書いて、インターネットで公開した理由はいくつかありますが、明確に断っておきたいのは、これが、「医療過誤」「白内障手術の危険性」を述べたのでは決してないということです。

白内障手術がきっかけで、思ってもみなかったハンディキャップを背負うことになりましたが、その事実を自ら受け入れるために「書くこと・公開すること」が必要だったのです。

医療者の目に触れることも念頭にありました。反響については、恐れと期待半ばでしたが、治療法、対処法、訓練法などの情報を求める気持ちも強くありました。わたしの症例が稀なものであったとしても、誰かの役に立つかもしれないという思いもありました。また、長いキャリアを通して「市民への医学専門情報の公開」を訴え続けてきたわたしの医学図書館員としての自負と責任感も公開の大きな理由です。

症例報告といっても、記述の中に医療側のデータはありません。患者であるわたしが医師に告げたサインと繰り返し訴えた自覚症状(書面で手渡していました)そして、わたしの挙動がデータのすべてです。

医師の前にいたのは、何が起こっているのか理解できず、混乱している一人の患者でした。彼女の混乱を整理し「正常化」に向かわせて欲しかったと思います。

混乱と不安の最中、インターネット検索や医学専門情報の検索ができたことが、患者としてのわたしの尊厳を支え、気持を奮い立たせ、希望へと向かわせました。強調して伝えたいことです。


●後日談

メーリングリストでいただいた印象深いメールを要略して紹介させていただきます。

<小児科医師>

患者が子どもの場合、親の同意もって本人の同意とされます。インターネット上の公開は半永久的と考えられるので、本人(元小児)にとって不利益な場合があるかもしれません。「元患者(元小児)が自分の症例報告を読む」という視点も考えられるのではないでしょうか。

(子どもの場合のご指摘にハッとしました。)

<眼科医師>

最近、ある勉強会で、「難しい白内障への対応について」という講演を聞きました。3例のdysphotopsiaの患者さんの話をされました。その中のお一人の患者さんはご自身の見え方を何枚かのグラフィックで作成して、先生に「このように見える」と提示されたとのことです。先生は、講演の中で、そのグラフィックをパワーポイントに入れて参加者に見せて下さり、会場にいた眼科医や視能訓練士は、dysphotopsiaの見え方を実感できたのでした。

(患者さんと医師のエピソードを伝えてくださったお気持ちがありがたく、とても励まされました)

<臨床検査医師>

(ご自身が、片眼の白内障を手術し、その5年後眼内レンズトラブルが生じて再手術をされた方でした)

お書きになった文を読んでの感想ですが、書かれている性格傾向から、術後の満足度が厳しい患者さんであることが予想されます。「どの距離を重視したいのかをじっくりと考え」て、医師に伝え、希望にそったレンズを選んだとしても「ある程度は、ズレが生じることも事前に充分承知しておくべき」だったかもしれません。ある程度見える時期に手術をするとなれば、さらに術後の満足度は高くなりにくいですから「あえて早期の手術を希望する」上では、上記のことを充分認識の上で判断されるべきだったでしょう。

(厳しいご指摘に、当時はへこみました。しかし、今では、わたしのようなせっかちな患者に対する貴重なアドバイスと思います。とはいえ、「満足度」で測られた点にやや抵抗を覚えます。)


●その後の経過

症例報告を書いて6年、2年経過後に書いた追記から4年が経ちました。高齢者では難しいと言われた「矯正」「適応」ですが、「視能訓練」の効果もあってか、症状はかなり改善しています。図書館、書店、スーパーでの苦痛は激減し、ほぼ日常にもどりました。テレビは鮮度を落とし、読書、スマホ、パソコンはその都度、度の違う眼鏡に取り換え、マスクを多用して楽しめるまでになりました。(新聞はまだ辛いです)。最近「視能訓練」をさぼりがちになるのは、「老化」として許容できるレベルになったということかもしれません。


おわりに 

エビデンスと現実がつながった「瞬間」

透析治療を拒む夫に担当医がゆっくりと話しかけた。
「あなたは今、橋の上を歩いています。足もとは鉄でがっちりしているように見えても、谷底にいる奥さんに見えているのは、さびて朽ちてボロボロの橋脚なんです」
夫は黙ってうなずいた。

朝日新聞 2022.8.14 Reライフ