ある医学図書館員の軌跡

みんなの図書館 2020年1月号 p.32〜39


「医学・医療情報提供」のために 医学図書館員の視点から


下原康子

下原康子(しもはらやすこ)
元医学図書館員。東邦大学医学図書館、東邦大学医学部附属佐倉病院図書室、千葉県がんセンター患者図書室「にとな文庫」と、大学図書館・病院図書室・患者図書室での勤務経験を持つ。


はじめに

図書館問題研究会千葉支部学習会(2019.10.28)「いろいろな図書館司書の情報交換会」の第一回「住民が医療情報を手にできる図書館とは」にゲストスピーカーとして招いていただいた。当日の参加者は18名。その多くは千葉県内の公共図書館の司書の方々であった。意見交換の中で改めて感じたのは、当然のことながら、公共図書館員と医学医療系図書館員では「医学・医療情報」のイメージが異なることだ。前者は市民の目線で、後者は医療者の目線で捉えている。

後者にとって医学情報といえば学術情報である。医学論文、 医学専門書、医学専門雑誌、EBM文献、学会情報、それらを検索するための文献検索データベースなどだ。これらの情報は主として医療関係者に提供されており、多くの患者・家族はその存在さえ知らない。しかし、医学医療系図書館員の多くは自分や家族のためにこれらの情報を利用したことがあり、その有効性をよく知っている。私はこれらの情報が一般市民にも開かれるべきだと考えている。学術情報への連携なくして、今現在、苦しんでいる患者・家族の情報要求に答えることは難しい。

思い出す光景がある。公共図書館の医学・医療の書架の前で初老の婦人がスタッフに何か聞いていた。子どもの疾患名が耳に入った。お孫さんの病気のことだと直感した。私の中の医学図書館員が頭をもたげ、声をかけたくなった。

公共図書館は学術情報の存在を認識し、それらを探す方法を知り、情報そのものにアクセスする手段を探って欲しい。私自身、自分や家族や友人たちが病気になったとき、医療者が使う情報を何度となく利用してきた。今や、一般市民の私が頼るのは公共図書館である。「みんなの図書館」である公共図書館こそが「わたしの図書館」である。医学図書館で得られていた情報を公共図書館でも、と願うのはぜいたくなことだろうか。
(1)

「医学学術情報」を実感していただくために、偶然にも医学図書館で働くことになった文系司書が次第に医学情報になじんでいった軌跡を語ってみたい。
(2) その中で、私自身のために医学文献を利用した事例のいくつかを紹介する。

T.文系司書が医学図書館員になる。

1.素晴らしい蔵書を満喫する。

1966年、司書として初めて働き始めたのは千葉県内にある文系の大学図書館だった。なによりも恵まれていたのは、この図書館は蔵書の質が高かったことだ。確かな選書眼のある上司がおられた。私の仕事は図書の整理だった。新刊本に触れ、ページをめぐり、分類を考え、カード目録をつくる。そういう毎日が楽しくてしかたなかった。大好きな本と、今ではすっかり姿を消してしまった目録カードケースに囲まれた日々はまさしくユートピアだった。

2.病院図書室から医療現場を垣間見る。

ユートピアに飽きたわけではないが、東京に行きたくなったか、社会にコミットしたくなったかして、27歳のとき、欠員を募集していた都内の医学系大学の図書館に職を得た。最初に配属されたのは大学付属病院の病院図書室だった。図書室は4階病棟の片隅にあった。医療の現場近くに身を置き、毎日のように横書きの本や雑誌に接触しているうちに、理系アレルギーが緩和されていった。医学・医療に関心が向くようになるにつれて、医療者への情報提供にやりがいが感じられるようになった。

仕事を学ぶ上で有効だったのが相互貸借業務である。その後も長くお世話になる医学図書館ネットワークを実感した。少しずつ文献検索を引き受けるようにもなった。ワープロさえない時代である。冊子体の「医学中央雑誌」「Index Medicus」が頼りだった。手書きの文献リストを提供して喜ばれた。それがうれしくて文献検索がおもしろくなった。
(3) 論文を流し読みして医師の専門がわかった気になったりもした。他大学を真似て始めたカード式の「和雑誌特集記事目録」は利用者に好評だっただけでなく、医学のトピックに注目するよいきっかけになった。「医師に提供する文献は患者さんの治療に役立っている」若い二人の司書は単純にそう思っていたようだ。

3.医学部図書館でパソコン時代に突入する。

1977年、同大学の医学部図書館に異動した。その翌年長男を出産したが、生まれてすぐ血中の好中球が極端に少ないという異常が発見された。当時育休はなかったので、産休が明けてすぐ職場復帰した。子どもの心配で明け暮れたこの時期は、仕事の合間に関連する医学書や論文を読み散らしていた記憶しか残っていない。知りたいというより、気持ちを落ち着かせるために取った行動だったと思う。『君と白血病』という本をお守りのように携えていた。この経験が「患者・家族への医学情報提供」を考えるきっかけになった。
(4) 

特筆しておきたいのは、当時の司書課長の発案で、毎月欠かさず開催し、司書全員が参加していたレファレンス・カンファレンスである。名称は病院で慣例になっているクリニカル・カンファレンスをもじっている。つまり「レファレンス検討会」のことだが、これは情報源の評価や、検索方法の検討など、パスファインダー(調べ方案内)につながる試みだったと思う。

15年間で、図書係、雑誌係、カウンター係とすべての係をまわった。カウンター係の後半にコンピュターの波が寄せてきた。オンライン検索(JOIS)、CD-ROM検索が導入された。JOISは有料で接続時間と出力件数で課金される。効率のよい検索に必須だったツールがMeSH(医学件名標目表)だった。おのずと医学用語とシソーラスの学習になった。

4.病院図書室を立ち上げる。

1991年8月、千葉県に附属病院が新設された。病院図書室の設置も決まった。医学部図書館の分室である。45歳の私が新図書室開設に挑戦することになった。15年間の経験と医学図書館スタッフが背中を押してくれた。新病院に赴任する医療者に不便な思いはさせたくない、資料は乏しくても、文献検索と雑誌論文は本館並みに提供したいと意気込んだ。 

真っ先にCD-ROMの医中誌とMedlineを導入した。当時の私は文献検索以外ではパソコンを使ったことがなかったので、その後の数年間はパソコンとの苦闘に明け暮れた。ようやく業務の大半を機械化できたころ、巨大図書館ネットワークが目前に迫っていた。インターネットである。図書室が呑み込まれかねない現実に直面して居直った。こっちからインターネットに飛び込み、有効活用できる部分を取り込んでしまおうと考えた。その試みが2001年1月に公開した「図書室ホームページ」である。メニューは「図書室の情報」「インターネットリンク集」やや異例の「YASUKOのページ」などで、これが、現在、私が開設している「康子の小窓」のルーツである。
(5) 特記すべきは、業務の機械化にしろ、ホームページにしろ、一人では決して実現できなかったということだ。一人図書館の私はなりふりかまわず周囲の助けを求める習性が身についていた。

2004年3月6日の朝日新聞「私の視点ウィークエンド」に「医学文献の無料公開を」という投稿が掲載された。
(6) 端的に言えば「医中誌Webを無料公開してほしい」ということである。15年経った現在でも無料公開は実現していない。一方で公共図書館への導入が広がっている。

5.患者図書室で「情報提供」について再考し、連携に目覚める。 

医学系大学を退職後、がん専門病院の患者図書室で働く機会に恵まれた。幸運な第二の人生のスタートである。医学図書館員の経験をフル活用して患者さんたちに医学情報を届けたいと意気込んだ。おりしも「がん対策基本法」が成立し「がん患者及びその家族に対する相談支援」が叫ばれていた。「患者図書室」にもスポットがあたり、開設間もないのに新聞で大きく取り上げられ驚いた。新たな挑戦に舞い上がった私は、患者図書室は「患者相談支援」の情報部門である、と公言したものだ。
(7)

しかし、患者・家族の情報要求は医療者に比べてはるかに複雑で多様だった。考えてみれば当然のことだが、医療者と患者・家族では「医学情報」のイメージと受け取り方がまったく異なる。後者にとって、その多くは「知りたくもないのに、知らなくては済まされなくなった情報」である。人によっても病状によっても欲しい情報は違う。欲しいときもあれば遠ざけたいときもある。「患者図書室ができたのは知っていました。でも、来るのは恐かったです」という若い女性の一言が忘れられない。 

とはいえ、医学専門情報が必要とされる局面は決して少なくなかった。病気についてとことん知りたくなった患者さんの理解力・集中力を甘くみてはいけない。分厚い医学専門書を読了した男性は「専門書は無理と医師から言われけれど、何も知らないでいるよりずっとよかった、受験の時以上に勉強しました」言われた。患者図書室における情報提供の事例と患者さんたちとの一期一会はホームページに掲載してある。
(8)

忘れてならないのは、院内にあった病院図書室の存在である。医学図書館ネットワークと連携して相互貸借を行っていた。スタッフは顔みしりで何でも気楽に頼めた。医中誌Webもまた患者図書室の情報機能を裏で支えた。これらがなかったら、患者図書室の活動が大幅に制限されたことは間違いない。恵まれた環境にいたときにはあまり意識しなかったネットワークと連携のありがたさが身に染みた。一度だけ、公共図書館のお役に立てたことがある。発行間もない国立がんセンターの「がん小冊子」を各種一部ずつお譲りしたのだ。感謝の手紙に添えていただいた手づくりのペットボトルカバーは今も愛用している。

6.患者図書室の選書と学術情報の提供

「患者図書室」の主役は「情報」ではなく「本」であった。(公共図書館もそうだと思う)。「最新の正しいがん情報」(情報本)と「闘病を励まし支える読み物」(闘病本)を収書の両輪にした。
(9) 情報本には診療ガイドラインなど医療者が使う専門書も含めた。闘病本は、闘病記に加えて、死生学の本や「生老病死」を考える小説、エッセイ、絵本、マンガ『ブラック・ジャック』などを含め、それらを総称して「闘病文学」と呼ぶことにした。(10)

選書の次に心を砕いたのが配架である。がん関連の独自の分類表を作った。情報本と闘病本をはっきり分け、情報本は「専門書」と「一般書」に、専門書は「医学系」と「看護学系」に分けた。いつのまにか文系司書に戻っていた私は「闘病本」の収集により熱が入った。絶版になった本は出入りの書店さんを通してアマゾンから購入した。おすすめの本をよく聞かれたので、厳選した本に赤丸ラベルをつけた。「情報本」の中の「専門書」は評価が知られており、選定で迷うポイントは「質」よりも「価格」だった。しかも「闘病本」と違って、改版されるたびに買い替えなくてはならない。(改版の継続性は評価の基準でもある)。

公共図書館にも最低備えておいて欲しい専門書が次の4冊である。『今日の治療指針』『今日の診断指針』(医学書院)『日本医薬品集 医療薬』(じほう)『臨床検査法提要』(金原出版)。開業医の診察室で見かける類の本である。疾患名、薬品名、検査名などが各項目の元に記載されている。注目すべきは、項目数が多くそれらが標準的な医学用語で、インターネットや医中誌Webの検索語として使えることだ。記載内容は難しいかもしれないが、医学情報においては「わかりやすさ」以上に「確実な手がかり」が重要な場合が少なくない。情報収集は「検索語」に左右される。インターネットの検索語に医学専門用語を使うことの意義と有効性に気づいて欲しい。

私を医学学術情報の世界に招いてくれたのは医中誌Webだった。それが司書をリタイアしたら使えなくなった。頼りにしていた親友と引き離されたような気持ちである。ときおり「公共図書館における医中誌Webの普及は、無料公開までの予備段階かもしれない」という思いが脳裏をよぎる。(途方もない考えだろうか)。日本のオープンアクセスがどこに向かうのか、先のことはわからない。しかし、その動向がどうあれ、私は国や大学が保有する学術情報を利用したい。それは情報公開法で認められた国民の権利である。高齢者医療費の増加で国民皆保険の危機が叫ばれている。医者にかかりすぎ、薬のむだづかいが引き合いに出される。その一因は人々の知識・情報不足にあるのではないだろうか。


U.医学図書館員が患者になったとき

1. 文献検索で急性肝炎の原因を調べる。

1992年10月、献血で肝機能障害を指摘され、何の症状もないのに即入院になった。
(11) 私が司書であることを知ってか、主治医からの説明はなかった。私の方も見栄をはって聞けずにいた。いろいろ教えてくれたのは同室の患者さんたちである。(病院で働いていることは伏せていた)。検査の結果、A型、B型肝炎は陰性だった。安静のみで肝障害は順調に回復したので3週間で退院となったが、肝機能障害の原因は特定できず、抗体が出来るのに時間がかかるC型肝炎の不安は残っていた。

仕事に復帰した私はC型肝炎ではない、別の(あまり深刻ではない)原因をみつけたくて文献検索に飛びついた。あれこれ探した結果、漢方薬による薬物性肝炎の可能性が高いと思った。医中誌検索でみつけた薬物性肝障害にくわしい医師に、症例報告もどきの手紙を書いた。ほどなくして「薬物アレルギー性肝炎の可能性はおおいにあります」という返事が返ってきた。気をよくした私は、服用していた漢方薬でチャレンジ・テストを試したいという衝動に逆らえなかった。主治医は検査数値が跳ね上がったことにびっくり、無謀な「実験」を知って、二度びっくりだった。服用を止めると数値はすぐに下がった。のちにアレルギー反応を起こす漢方薬の成分が特定された。こっそり服用を続けていたら劇症肝炎の危険さえあったのだ。後日、学会でこの症例を報告する主治医に私が集めた論文を提供した。ここで、特記すべきは、私の無謀な実験では断じてない。文献検索ができたおかげで、見ず知らずの専門医に直接コンタクトができたことである。

2. 乳がん患者を体験する。

1995年6月に乳がんで勤務先の病院に入院した。文献検索の出番、と思われるかも知れない。しかし、ことはそう簡単ではない。後に、患者図書室でたびたび思い出すことになる「情報は欲しい、でも知るのは恐い」という患者心理を実感することになった。

乳がんは自分でみつけてその日にうちに受診しその日のうちに告知された。オウム真理教教祖の麻原彰晃が逮捕されたちょうどその日のことである。そこから先の私は医学図書館員どころか、エスカレーター患者になり果てた。俳優の藤村俊二さんが「闘病というのは患者が闘うものではなく、お医者さまが闘うものだと考えております」と言われているが、そのときの私の心境もそれに近い。ただし、それは医師への信頼があってこそである。その信頼が揺らぎかねない出来事がおこった。

退院を心待ちにしていたころ、主治医に呼ばれた。主治医は「部分切除した部分に広がりが認められたので、もう一度、こんどは全摘しましょう」と言った。続けて「病理の先生の話を聞いてみる?」と聞いた。文献申し込みでおなじみの病理医だった。

主治医と病理医の丁寧な説明を聞いているうちに、「なぜ!どうして?」という憤懣やるかたない気持が次第におさまってくるのを覚えた。説明そのものはその場で理解するには専門的すぎた。しかし私は納得した。再手術を承諾し、再びエスカレーターに戻る気持ちになった。医師に対する感謝の気持がそうさせたのだ。

がん患者にとって病理結果は運命の宣告にも等しい。とはいえ、通常、病理医がじかに患者に説明することはまれだ。私の場合は、職員ゆえの特別扱いだったと思う。それにしても、病理医が患者に接する機会がないのはいかにも惜しい。2008年に「病理診療科」が標榜科として認められた。知っておきたい専門医情報である。

おわりに

病と闘っている患者さんに「情報提供」という言葉はなじまなかった。そもそも「情報」とは何だろう? 今回のテーマで連想した定義がある。

「情報とは可能性の選択的指定作用のことである。『ああも考えられる』『こうも考えられる』というふうにさまざまな可能性があるときに、その中で『実はこれがそうなんですよ』と一つの答を選択して与えてくれるもの、それが情報ということのもっとも一般的な性質である」
(12) 

図書館はさまざまな可能性をあれこれ探すことができる自由な「場」であり、視界を開く「窓」であり、新たな展開につなぐ「橋」なのだと思う。

関連サイト
☆は「ある医学図書館員の軌跡」に収録。★は独立したサイト。(12)は図書。

(1)一般市民も使える医学図書館 付:公共図書館の試み ★
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(3)楽しんで文献検索 ☆
(4)医学図書館員が選ぶ 患者・家族のための医学情報ウェブサイト ☆
(5)康子の小窓 ★
(6)私の視点 医学文献の無料公開を ☆
(7)患者図書室のアピール 千葉県がんセンター「にとな文庫」の挑戦 ☆
(8)患者図書室挑戦の記録 ★
(9)情報本と闘病本 ☆
(10)闘病文学のページ ★
(11)急性肝炎になって ☆
(12)湯川秀樹、梅棹忠夫『人間にとって科学とは何か』 中央公論社 1967 p.18