ある医学図書館員の軌跡
2017.12.10



ある医学図書館員の回顧 パソコン以前と以後

下原康子



はじめに

私は1966年から2014年までの48年間を司書として働いた。1974年以後は一貫して医学図書館員であった。現在の正直な感慨を言えば、本が好きで司書になったのに、後半生でこれほどまでに苦手な機械に翻弄されるとは思ってもみなかったというところだろうか。もし、個人的な回顧に意義があるとしたら、パソコン以前と以後の図書館で働いた経験を語れることくらいだろう。以前と以後の変化はどの職業でもあっただろう。その中でも(思いこみも入っているが)医学図書館員の仕事の変化は急速だったような気がする。以下、主に以前・以後の観点に沿いながら思い出を綴ってみたい。(思い出は寄り道が好きだからどうなることやら・・・)

司書になる

私は国立図書館短期大学一期生(1964年入学)である。短期大学は1981年に廃止され図書館情報大学に移行、その後2002年度より筑波大学に統合された。当時の私が目指したのは図書館短期大学の前身である文部省図書館職員養成所(1947年創設)だった。学費は無償、しかも入試は文系3科目。願ってもない条件だ。国立に移行するという話が聞こえ始めてやきもきしたが、幸い入試は従来の文系3科目に据え置かれたのでかろうじて合格できた。その後の推移を見ると、この時の養成所から国立大学への変換は国が「目録作り職人」であった司書に「図書館情報学の技術者」を期待してのことだったかも知れない。私たちの就職は恵まれていた。同期の約70名は、大学、研究所、企業、官庁、銀行などに職を得た。公共図書館や学校図書館は少なかったようだ。

1966年、全共闘運動ピークのころ、私は自宅から通える千葉県の文系のR大学図書館に就職した。緑豊かな広々した敷地内にあった。その時は意識しなかったが、外国文学に熱中しはじめた私にとってこれ以上うってつけの職場もなかった。しかも、いっしょに働く先輩司書は養成所卒業のお姉さんたちで、直伝で実務を教わることができた。今になってしみじみ思うことだが、この図書館は個人全集が充実しているなど、全体として蔵書の質がよかった。確かな選書眼のある上司がおられた。図書館の手作業がまた楽しかった。とりわけ謄写(ガリ)版印刷が好きで、カードサイズのヤスリ版の上に原紙を置いて鉄筆で文字を書く時のガリガリという音は快感だった。かわいい謄写印刷機のインクの匂い、窓から入るそよ風がワンセットのさわやかな思い出としてよみがえる。


この写真の図書目録カードはそば屋さんで小物入れとして使われているとのことです。
   
日々愛用していた「目録カード謄写版印刷機」のワンセット。 
     

目録カードは、分類、著者名、書名、件名、副出など1冊の本につき5〜8枚くらいつくる。次にファイリングのためそれぞれのカードの上部にローマナイズを打つ。タイプライターの音が心地よく、いつのまにかタイピングを習得していた。世界文学全集の各巻に収録された複数の著者の副出を行ったことがある。外国人著者は元綴りで入れる規則だった。Shakespeare、Maugham、Flaubert などの作家の綴りは今でも忘れていない。1969年7月アポロ11号が月面に着陸したときは視聴覚ホールに集まってみんなでその映像を見た。5〜6年前だったか、この図書館を(建て替わってはいるが)訪ねた。事務室の片隅に木製の古い目録カードケースが置かれていた。パソコン以前の図書館の風景の主役だったものだ。40数年前に私が作った図書カードが残っていた。司書として幸せなスタートをきらせてもらった図書館に感謝している。

1970年、両親が郷里に帰ったのを機に東京に勤め先を探して一人暮らしをすることにした。結婚退職する同期の友人の後任にあっさりと決まった。丸の内の経団連会館の斜め前にある公庫(現在は吸収合併されている)の図書室で、1974年までの5年間ここで働いた。この間、よど号ハイジャック事件(1970)三島事件(1970)あさま山荘事件(1972)などが続いた。1974年8月の丸の内の三菱重工業爆破事件が起きたのはお昼時で、周囲が大騒ぎになったのを憶えている。図書室は役員室のある最上階のフロアにあった。地下には大型コンピュータ室があった。環境、待遇、給料、人間関係、すべてにおいて申し分なかったが、司書が必要とされる仕事だけはなかった。結婚退職する女性が勝ち組だった。多趣味な人が多くイベントがさかんで、スキー、ダンスパーティー、八丈島旅行、メーデーの行進などを経験した。理事の秘書さんたちと銀座でエスカルゴを食べたこともある。今でも折に触れて自分らしからぬ丸の内OL経験をなつかしく思い出す。

丸の内周辺には経団連はじめ銀行や公庫などに数名の同期生が就職していた。それぞれの図書室を会場にして勉強会を開いていた。私は数回の参加で終わったが、経団連図書館の規模に驚いたこと、そこで同期の友人(後に社史の研究で業績を上げた)の上司(司書)から聞いたユニークな図書館論が記憶に刻まれている。ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』で述べた遊びの6つの基本的定義(@自由な活動A隔離された活動B未確定な活動C非生産的活動D規則のある活動E虚構の活動)が図書館にはすべてそなわっているという指摘は眼からうろこであった。

 
【ロジェ・カイヨワの遊びの定義】 

1.他から強制されない自由な活動である。
2.定められた時間、空間に限定された分離した活動である。
3.あらかじめ結果が分からない不確定な活動である。
4.物質的には何も生み出さない非生産的な活動である。
5.日常とは違うそれだけのルールに従う活動である。
6.現実生活とは対立するあるいは全く非現実という意識を伴う虚構的な活動である。

【ロジェ・カイヨワの遊びの分類】

1.競 争(アゴン) : 運動競技、ボクシング、チェス
2.偶 然(アレア) : じゃんけん、くじ、賭け、宝くじ
3.模 擬(ミミクリ): 子供の物真似、人形、仮面、演劇、カラオケ、コスプレ
4.眩 暈(イリンクス):メリーゴーランド、ブランコ、スキー、登山、オートバイ、絶叫マシーン


遊びの定義と分類 (典拠:『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ/清水幾太郎訳 岩波書店)

「図書館で遊ぶ」


医学図書館員になる 

1974年に東邦大学に入職した。「婦人司書の会」の紹介で、これまたあっさりと決まった。医学図書館員としてのスタートである。これより2006年の退職まで大橋病院図書室に2年8か月、医学部図書館(大森)に14年4か月、佐倉病院図書室に14年6か月。通算31年6か月を東邦大学で過ごすことになる。


大橋病院図書室

1974年、東邦大学での最初の勤務場所は東邦大学付属大橋病院図書室だった。新米で学ぶべきことは多かったはずだが思い出は仕事以外が多い。図書室は病棟から小さなドアで仕切られた片隅にあった。事務コーナーの窓から緑の土手が見え、ちょっと奥まったところに閲覧スペースがあった。居心地がよかったのだろう、図書室でみかんやカップ麺を食べる医師、編みかけのセーターを持って訪れる女医さんがいた。20代の司書二人は利用者を(こっそり)愛称で呼んでいた。

「大橋図書室だより」という手書きコピーの広報紙を発行し、毎号医師のエッセイを載せていた。この経験は後に「佐倉病院通信」発行に生かされた。レファレンス・ツールに関心を持つきっかけになった初めての文献検索(クラインフェルター症候群)を憶えている。図書室所蔵のIndex(医中誌、IM、EM)を総動員して検索を行い3日がかりで手書きのリストにした。今では考えられないが、Indexを積み上げての作業にはわくわくするような充実感があった。16年後、佐倉病院図書室でこのときの泌尿器科の医師と再会した。

1975年、司書課長から雑誌「医学図書館」で「病院図書室」の特集をするので、大橋図書室について書くようにと言われ 「東邦大学医学部付属大橋病院について」を書いた。1975年は医学図書館員研究集会にも参加している。気負って書いた「医師の要求と医学図書館」が残っている。

医学部図書館(大森図書館)

1977年に本館に異動になった。30歳だった。同じ年に結婚し、翌年1978年3月、大森病院で長男を出産した。産休中は代替司書の採用があった。(育休の制度はなかった)。産休が明けてすぐ仕事復帰したが、生まれた子どもに好中球が極端に少ないという異常が発見され、仕事の合間を縫っては関連する本や論文を読み散らしていた。1979年11月には長女が生まれた。3年間のうち半年を休み、その後も子どもの心配で明け暮れたこの時期の仕事の記憶はぼんやりしている。心ここにあらずだったのだろう。息子の心配がなくなった1985年、図書館ニュースに「患者さんのための本 『君と白血病』を読んで」を書いた。「患者・家族への医学情報提供」を意識するようになっていた。医学部図書館では図書係(4年)雑誌係(3年)カウンター係(7年)とすべての係をまわった。この経験が佐倉病院図書室の立ち上げと運営に大いに幸いした。


図書係と雑誌係

当時の図書係の心情を吐露した論文が残っている。「目録の機械化と目録係」。ひたひたと押し寄せる機械化の波におじけづきながらも、一方で標準化に対して天邪鬼的な抵抗を示すなど、屈折した心理がうかがえる。ガリ版ノスタルジーを吹き飛ばす革命が目前に迫っていたのだが、私の記憶に残る図書係はまだブックトラックを傍らに置き、手書きで目録をとっていた (さすがにガリ版は消えカードはゼッロクス・コピーで作成していたと思う)。事務室の書架には新着図書が常時あったし、新着雑誌も毎日のように届いていた。ロッキード事件、オイルショックの時代である。

1979年、「教育用指定図書」(小冊子)を発行した。各教室の教員の選定による医学専門図書リストで、ABC3段階のレベルに分かれていた。(私は直接担当しなかったが)図書係のいい仕事といえると思う。後に佐倉病院図書室の選書に役立ったのは言うまでもない。A項の「学生用指定図書」は別途印刷して全学生に配布した。いきおい貸出が増え紛失も続出した。複本も入れたが、カウンター前の目につきやすい書架に1セット配架し館内閲覧のみにした。それでも紛失するので、本の背に通し番号を付けて毎日数えていた。苦心したことは記憶に残るものである。

1980年、図書館は新設された大学2号館の1,2階に引っ越した。晴れた日には富士山が見えた8,9階から下に移るのは少し残念だったが、長い時間をかけて引っ越しの段取りを検討し、スタッフ全員で汗を流したことで仲間意識が強くなった気がした。汗を流すといえば、毎年恒例の蔵書点検もなつかしい。デスクワークから離れ、利用者もいないし、ちょっぴりリクレーション気分だったかもしれない。

1982年から雑誌係になり、和雑誌と洋雑誌の両方を経験した。受け入れには和雑誌はバインダー、洋雑誌はカーデックスを使っていた。「所蔵雑誌目録」(冊子) は図書館のもっとも重要なツールの一つで、その編集・発行は雑誌係の重要な仕事だった。少なくとも5年ごとに改訂版を出していたと思う。

毎月一回、司書課長と和雑誌特集のキーワードを検討した。和雑誌特集記事索引はまだ大橋図書室のころと同じカード式だった。数年分をまとめた冊子体も発行した。特集記事を通して定期的に医学のトピックに注目する時間が持てたのは思えばありがたいことだった。医学や医療への関心につながった。そんなとき、第一生理学教室の鳥居鎮夫教授の『行動としての睡眠』(青土社1984年)に出会った。この本の最初の章は“夢の生理学”である。さがしていた文学と医学の接点、それがこれだと思った。「ドストエフスキーと夢」。パソコン以前と以後の司書の仕事の大きな違いの一つは、良くも悪くも現物(本・雑誌)から遠ざかったことであろう。

特筆しておきたいのは、1977年から毎月欠かさず開催していたレファレンス・カンファレンス(レファレンス事例検討会・通称レフコン)である。回を重ねるうちに、レファレンス事例の枠を外してなんでもありのスタッフの勉強会になっていった。各係からテーマを出して検討したり、研究会やセミナー参加の報告をしたり、見学してきた図書館を紹介したり、セミナーに参加前に発表の練習をしたり、「医学図書館」などの雑誌論文を読んだり、英語論文の抄読をしたり。鳥居先生に睡眠のお話をしていただいたこともある。毎回ほぼ全員が参加していた。1986年9月に100回達成のお祝いをしている。1984年に私が名古屋のセミナーに参加したときも発表の練習をさせてもらった。司書課長から「雑感の人」と呼ばれた論文が残っている。「医学図書館員としての生きがい−図書館員と情報−」


カウンター係

1984年、38歳の時カウンター係に移った。それから1991年(平成3年)に佐倉病院図書室に異動するまでの7年間をカウンター係として過ごした。手元に手書きの「カウンタースタッフマニュアル(1990)」のコピーがある。当時カウンター係は、担当する仕事を固定しないでローテーションでまわしていた。受付全般、相互貸借(貸)、相互貸借(借)、レファレンスサービス、文献検索など。夜間はアルバイトが入っていた。(一時期、本学の医学生や看護学生を雇用していた)こうした事情からマニュアルが必要になったのだろう。46項目をスタッフが分担して書いている。相互貸借に関わる項目が多い。その中から「文献の探し方・集め方」「二次資料一覧」「所蔵目録」をパソコン以前のツールの記録として書き写しておく。

文献の探し方・集め方(1989.6.22)

1. 特集記事索引(総説が多い)
2. 医学中央雑誌
3. Index Medicus
4. Excerpta Medica
5. その他の二次資料
6. 図書(参考文献を含む)
7. 総説文献(MOOKなど)
8. Bibliography of Medical Reviews(IM)
9. オンライン検索(MEDLINE,EMBASE,その他)
10. CD-ROM(NEDLINE,EMBASE)

東邦大学医学部図書館・受入二次資料一覧 (1990.3.2)

医学中央雑誌
Index Medicus/ Cumulated Index Medicus
Excerpta Medica
Current Contents
Biological Abstracts(1989年で受入中止)
科学技術文献速報:環境公害編
呼吸器疾患・結核文献の抄録情報
国内胃癌文献情報
Bibliography of Stomach Cancer
プラスミン文献集目録
Nova Angiologicae(和)
Abstract on Hygiene and Communicable Diseases
Analytical Abstract
Bibliography of Reproduction
Index to Scientific Technical Proceedings(1989年で受入中止)
International Pharmaceutical Abstracts
Microbiology Abstracts,Ser.A:Industrial and Applied Microbiology
Microbiology Abstracts,Ser.B:Bacteriology
Neuroscience Abstracts
Nutrition Abstracts and Reviews,Ser.A:Human and Experimentals
Nutrition Abstracts and Reviews,Ser.B:Liverstock Feeds
Sleep Research
Tropical Disease Bulletin
World Meeting:Medicine
Zentralorgan Chirurgie/Surgery

所蔵目録(1990.3.2)

学内所蔵目録(各種)
学外所蔵目録
・医学雑誌総合目録 欧文/和文
・現行医学雑誌所在目録(毎年発行)
・医学洋書総合目録(UC)
・学術雑誌総合目録 欧文篇/和文編
所蔵目録データベース(NACSIS-IR:学術情報センター情報検索サービス)
・JSCAT(和雑誌)・FSCAT(洋雑誌)・JBCAT(和図書)・FBCAT(洋図書)

1989年にはオンライン検索(JOIS)が、またCD-ROM検索も導入されていたことがわかる。JOIS講習会が頻繁に開催され交代で受講していた。JOISは有料で接続時間と出力件数で課金される。回線が途切れることも多く積極的になれなかった。しかし、後にも先にもこのときほどMeSHが身近だったことはない。1989年7月にCD-ROM用パソコン(SonyQuarterL)が導入された時点で、「パソコン以後」に突入した感がある。チェルノブイリ原発事故(1986)、天安門事件(1989)があった。

カウンター時代といえば、夜間アルバイトの面々がなつかしい。医学部2年生と看護学生たちで、およそ3年間で総勢10名くらいがバイトをしていたと思う。長くは続かなかったが、この時の学生さんたちの名前は今でも憶えている。この中の3名は、後に佐倉病院で(研修生や入局で)再会した。


佐倉病院図書室

1991年、ソ連崩壊、湾岸戦争の年に佐倉病院図書室に異動した。45歳になっていた。以後の記録は多く残っている。「佐倉病院図書室のあゆみ」 図書室利用の推移。異動した当初はワープロ(一太郎)がやっとだった。もはやパソコンは避けられないという自覚があったにもかかわらず、目録カードケースとハードカバーの金銭出納帳を携えて移ったのには笑ってしまう。(目録カードケースは消耗品入れになったし、金銭出納帳は数ページで終った)。すでに経験していた医中誌CD-ROM検索は比較的スムーズに開始できた。難関は業務用パソコンだった。図書目録、和雑誌特集、出納帳をデータベースに移行したいのだが手も足もでない。そんなとき救いの神が現れた。一人の小児科医師の指導でデータベースソフト「桐」の導入が実現したのだ。図書室業務最大のエポックメイキングな出来事だった。図書の入力からはじめ、ほどなく他も実現できた。パソコンとにらめっこの日々のスタートである。そのころ書いた文章がある。「佐倉病院図書室から」

1992〜1995、忘れられないのは2度の入院(佐倉病院)だ。急性肝炎(1992.10)と乳がん(1995.6)である。入院中は医学部図書館から応援に来てもらった。病気体験により日常業務にかまけて薄れがちになっていた「患者・家族への医学情報提供」への思いがよみがえった。1994年10月、CD-PLUS(ネットワーク版MEDLINE) のサービスを開始した。1995年は大きな節目になった年である。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があった。個人的には親友の死と私の乳がんがあった。またインターネット元年と言われた年でもある。このころ書いたものがある。「孤独とパソコンとの闘い 佐倉病院図書室の5年間」

1997年のMEDLINEの無料公開は衝撃であった。「メドラインの無料公開」 。同じ年にNLM館長リンドバーグ博士の講演(JMLA創立70周年記念講演会)を聞いた。MEDLINEは医学図書館の専売特許ではなくなった。もっと早く公開されていれば薬害エイズの被害は防げたのではないかとも思った。「大学図書館の一般公開を望む -薬害エイズの教訓-」

2000年2月「第2回EBMリサーチライブラリアンショップ」に参加 した。EBMは医学図書館に欠かせない重要なキーワードになった。「EBMとは何か」「診療ガイドライン情報」の公開は東邦大学医学メディアセンターの一員として誇らしかった。

2001年1月「佐倉病院図書室ホームページ」を開設した。私の司書人生における最大のイベントと言ってよい。もちろん独力でできるはずもなく、図書室の利用者だった研究生にサーバーを立ち上げてもらって実現した。ホームページのメニューを考えたりデザインしたりが楽しくて仕方がなかった。2002年7月にはアクセスが1万件を突破した。 もっとも、インターネットに関しては初期のころから「インターネット時代の病院図書室」や 「インターネット vs 一冊の本」に書いたようなアンビバレントな(パソコン以前とパソコン以後を象徴するような)気持ちがつきまとっていた。しかし、人類に対するインターネットの功罪はともかくとして、私自身に関して言えば「佐倉病院図書室ホームページ」の公開によって医学・医療への視野が広がったのは間違いない。思いがけない展開や出会いが医学図書館員としての意識に大きく影響したと思う。医学図書館員のMLに助けられ、医療系のMLでのやりとりで啓発された。「コマッタ患者さん」について」 「フルテキストへのアクセスについて」。一人図書室の孤独は完全に払しょくされた。ホームページ作りが楽しいあまり、「悪魔が耳打ち図書館用語集」 「文学の中の医学」 の公開を始めた。

21世紀に入り、マイパソコンで利用可能なサービスは一気に加速した。The Cochrane Library、医中誌Web、電子ジャーナル、Web of Science、JCR、メディカルオンライン。その都度「簡単手順」を作成して追いかける努力をした。私が知るのはここまでである。古典的司書からスタートした私だったが、定年退職の時には医学図書館員になっていた。「さようなら ありがとう 佐倉病院」。それからすでに10数年が過ぎた。現在の私はユーザーとして医学図書館が公開する情報やオープンアクセスの動向に注目している。また、医学図書館員の役割についても関心を持ち続けていきたいと思っている。

振り返ると、いかに周囲の人たちに助けられていたかがわかる。パソコン以前も以後も人的ネットワークに支えられていたのだ。2006年3月に東邦大学を定年退職した。その後、がん関連病院の患者図書室で働く機会をもらった。「患者図書室挑戦の記録」。しかし、これは別のテーマである。このあたりで回顧を終えることにしよう。支えていただいたすべてのみなさまに心を込めてありがとう!


追 記

この回顧を書いたのち、以下の記事をみつけた。受賞者の感想から、パソコン以後の日々が甦った。
「 第 43 回情報科学技術協会賞」を受賞して 情報の科学と技術 68 巻 10 号(2018)
今更ながら、私も何度か参加した「医学情報サービス研究大会」の受賞をうれしく思った。また、佐倉病院図書室にCD-ROM用パソコン(SonyQuarterL)を導入したとき、たいへんお世話になったU社のMさんの感想がなつかしかった。(2021.3.17)